胸をはってもう一度生きていこう 乳がんと鬱を乗り越えてきた経験が私を強くした 女優・音無美紀子さん

取材・文:崎谷武彦
撮影:板橋雄一
発行:2004年9月
更新:2018年10月

  
音無美紀子さん

おとなし みきこ
1949年、東京都生まれ。17歳で劇団「若草」に入り、71年、TBSのドラマ「お登勢」のヒロインに抜擢されて脚光を浴び、人気女優に。76年、俳優の村井国夫さんと結婚。87年、乳がんが見つかり、全摘手術を受ける。その後、病気を隠し続けていたことなどが引き金になり抑鬱状態に。約半年後に回復し、女優業に復帰した。2004年5月、村井さんとの共著で『妻の乳房「乳がん」と歩いた二人の十六年』(光文社)を出版した。

16年前、乳がんのため乳房全摘術を受けた音無さん。しかしその後、周囲にがんを隠したことが一因となり、深く心を閉ざしてしまう。そんな音無さんを救ったのは、母親を慕う長女の一言だった。今、音無さんは妻・母・女優として満ち足りた日々の中にいる。

これは必要な悲劇だった

「今、振り返ると、これは降りかかった悲劇ではなく、必要な悲劇だったのだと思います」

静かな落ち着いた口調で、音無美紀子さんが言う。

そう、たしかに音無さんは悲劇に見舞われた。しかし今、その悲劇を「必要なことだった」と音無さんは言いきる。病気と闘った経験が音無さんに勇気を与え、強くしたのである。

1988年5月。音無さんは入浴したときに自分の胸を触り、左の乳房に小さなしこりがあるのに気がついた。 「おそらくがんではないでしょう」

夫の村井国夫さんに勧められて診断を受けに行った産婦人科ではそういわれた。レントゲンや超音波などの設備はなく、触診だけでの診察だった。音無さんは子供のころから病気らしい病気はしたことがなく、いつも健康そのものだった。家族にもがんになった人はだれもいない。「まさか私ががんになるはずがない」と思っていた。だから産婦人科医が念のためにT大学病院に紹介状を書いてくれても、「そのうち仕事が一段落したら」と軽く考え、そのまま放っておいた。

だが夏に村井さんとゴルフをした翌日、音無さんは左腕を上げると胸に強い痛みが走るのを感じた。それでようやくT大学病院を受診することにした。しこりに気がついてからもう2カ月半近くが過ぎていた。

乳がんの疑いが強い――。T大学病院の乳腺外科で触診を受けたあと、担当医から指摘された。それでも音無さんは不思議なほど冷静だった。これから受ける検査のことや手術することになったときの入院期間などを説明する医師の言葉も、落ち着いて聞くことができた。医師の説明を聞いている自分をもう一人の自分が見守っているような、妙な気分だった。

だが、冷静さを装っていても心の中は激しく動揺していたのである。それが分かったのは医師の説明が終わり、椅子から立ち上がろうとしたときだ。

「しばらく立ち上がれなかったんです。自分の足が自分の足でないような感覚で、床を踏みしめている感じがしないから、腰が上がらないんですね。しっかりしなさいって自分を鼓舞して、やっと椅子から離れることができました」

病気のことを知られたくなかった

写真:手術当時、長女はまだ6歳だった

手術当時、長女はまだ6歳だった。子どもたちのためにも、乳がんを乗り切ろうと思っていた

超音波、マンモグラフィなど、その日の午後に受けた精密検査の結果もやはり、がんだった。友人に勧められて翌日、セカンドオピニオンを得るために慶応病院も受診してみたが、結果は同じ、1期の乳がんであった。

8月末、音無さんは慶応病院に入院した。このとき音無さんの病室のドアには、音無美紀子でも本名の村井美紀子でもなく、友人の名前を借りた名札がかけられた。有名な女優だけにたとえ本名でもマスコミにかぎつけられるかもしれない。そうなったら家族のことまで含めて興味本位に書き立てられる。それを避けるために入院したことを隠しておきたかったのだ。

しかし、それだけではなかった。とにかく乳がんになったことを人に知られたくないという気持ちが強かったのである。

「もともと強がりなほうだったから、同情されたり特殊な目で見られるのが嫌だったんです。それに当時は乳がんというと、おっぱいがないというイメージだったでしょ。病気のことを公表して、そういう自分の姿を人に想像されるのが嫌だったし怖かったんです。女優というより、女としての見栄だったかもしれませんね」

音無さんは入院中、病室を出るときは必ず顔が全部隠れるくらいの大きなマスクを付けるようにしていた。入院前や退院後、外来の待合室で自分の番を待っているときは、ひたすらうつむいたまま本を読んでいた。それでもあるとき、知り合いの女優の母親から「音無さんではないですか」と声をかけられたことがある。そのときは健康診断にきていると言ってごまかした。

だが、乳がんであることを隠し続けていたことが引き金になり、やがて音無さんはもう一つの悲劇を招いてしまうのである。

必死で取り組んだリハビリ

1988年9月、音無さんは慶応病院で10時間に及ぶ手術を受けた。T大学病院で診察を受けたときには温存手術も可能かもしれないという話だったが、慶応病院で受けたのは左の乳房と胸の筋肉や脇の下のリンパ節まで切除する全摘手術だった。もちろん手術法については事前に医師から詳しい説明があった。本人には温存手術を諦めきれない気持ちもあったが、再発の危険性をできる限り排除するためには全摘手術のほうがいいという夫の村井さんの助言もあり、最終的には音無さんも納得した上でのことだった。当時は早期の乳がんでも全摘するのが標準だったのである。

術後は背中が割れるような痛みが3日間続いた。背中に転移したのでは……。激しい痛みのたびにそんな不安が頭をよぎった。けれども4日目からは痛みが引いていき、それとともに食欲も回復し、またいつものような元気が戻ってきた。6日目に抜糸をし、翌日からは病室の壁を利用してリハビリも始めている。壁に自分の身長と同じ高さの目盛りのついた紙を貼り、その横に立って少しずつ左腕を上げていくリハビリだ。

「1日も早く日常生活に戻りたいという気持ちが強かったので、一所懸命でした。退院するまでに絶対ここまで手を上げられるようにするぞという覚悟のもとでやっていましたよ。看護師さんが今日はもうやめておいたほうがいいと言っても、あと5ミリとか言って頑張りましたもの。でも本人がそれくらいの強い意識を持って取り組まないと健康は取り戻せませんし、リハビリをしっかりしておかないと結局あとで辛い思いをするのは自分ですからね。おかげで退院するときにはずいぶん腕が上がるようになっていました」

なんとしても病気を治し、健康を取り戻して元気に生きていこう。このころの音無さんには、そんな前向きの力がみなぎっていた。病気をしたことで自分を見直すいい機会になったとも考えていた。明らかにプラス思考だった。9月27日に退院したころは、「乳房温存療法にしないでよかった、結果的にはベストの選択だった」と村井さんに語っている。村井さんもこのころの音無さんは「輝くような笑顔だった」と後に述懐している。11月末には夫婦でニューヨーク旅行もした。この旅行は、形成外科が進んでいるアメリカの乳房再建手術について情報を得るのも一つの目的だった。

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