40キロちょっとに痩せ細った体で抗がん剤治療に堪えた空白の6カ月 悪性リンパ腫から生還した青島幸男さん
1932年、東京生まれ。高校時代に結核を患い、早稲田大学商学部を卒業後、同大学院に進むが、肋膜炎を患い中退。療養中に書いた漫才の台本がきっかけで放送作家としての活動を開始。68年参議院議員となり、4期の任期満了間際の95年に東京都知事に当選。1期をつとめ99年に退任した。2000年、作詞をした『明日があるさ』(リバイバル)が大ヒット。03年グリーンクリスマスソングとして作詞作曲した『ヤシの木陰のクリスマス』が南の島でブームになる。
元参議院議員であり元東京都知事、作家、俳優とさまざまな顔を持つ青島さんには、実はあまり知られていないがん体験がある。「病名を知らされず、治ることを信じて医師の治療にしたがっただけ」という青島さんだが、抗がん剤治療のつらさだけは今でも忘れないと言う。青島さんはがんとどう闘い、どう乗り切ったのだろうか。がん患者の先端医療に寄せる熱い想いを伝えるために。
青島幸男さんは、これまでまさにマルチ人間にふさわしい活躍をしてきた。おもだったものだけあげても放送作家、作詞家、俳優、映画監督(カンヌ映画祭入選)、直木賞作家、タレント、司会者、参議員議員(25年)、東京都知事と活動の幅は実に広い。そのため常に活躍してきたように思ってしまうが、活動の軌跡をたどっていくと都知事に就任する3年前の1991年に、半年ほど空白の時間があることが判る。悪性リンパ腫であることが判明し、都内の大学病院で抗がん剤の副作用に耐える生活を送っていたのだ。
40年前の結核性膿胸が原因の特殊な悪性リンパ腫
1995年、170万票を獲得し東京都知事に就任
当時、青島さんは多忙を極めていた。議員活動、作家作詞家としての活動に加え、日本テレビで月曜日から金曜日まで放送されていた30分のニュース・生活情報番組『追跡』のメインキャスターを務めていたのだから、どれだけ忙しかったかは容易に想像がつく。
そんな折、青島さんを突然病魔が襲った。
はじめは、胸に鈍い痛みを感じる程度だった。しかし、徐々に痛みが増し、背中にもしこりを感じるようになった。これは何かあると思った青島さんは、日大板橋病院に行って診てもらうことにした。
この時点では、青島さんは自分ががんに冒されているとは夢にも思わなかった。別の病気を想定していたのだ。
「昔、結核を患っていたところがおかしくなったと思ってたんです。学生のころ結核が元で湿性肋膜炎(膿胸)をやってるんです。これは、肋骨のところに水が溜まって膿になる病気で、なかなか治らない厄介な病気なんですよ。だから大学出ても就職できなくて大学院に通いながら療養していた。でも、放送作家として売れてきて仕事が忙しくなったら、いつの間にか治ってたんだけど、ちゃんと治したわけじゃなかったから、胸の痛みの原因は、それだと思っていました」
青島さんの予想は正しかった。胸の痛みは、30年以上前に結核性の膿胸があったところに悪性腫瘍が発生したのが原因だったのだ。
このように昔やった結核性の膿胸(湿性肋膜炎)のあとに発生する悪性リンパ腫は『慢性膿胸関連リンパ腫』という分類のされ方をすることが多く、最近では*EBウイルスとの関連が注目されている。
『慢性膿胸関連リンパ腫』はいろんなタイプがある非ホジキン・リンパ腫の中でも、とくに際だった特徴があり、我々がイメージする悪性リンパ腫とは大きくかけ離れている。
その特色を集約すると、以下の4点がとくに際立っているように思える。
1 日本特有のもので、結核に感染したことがある人にのみ発生するリンパ腫であること。
2 感染後20年以上たってから、ずっと休眠状態だった慢性膿胸の患部に発生する。
3 高齢者の男性に多く、若いころ結核の治療に人工気胸術を受けた者に多い。
4 治療は化学療法だけでは無理で、手術など外科的手段が必要となることが多い。
このように膿胸関連リンパ腫にはたいへんはっきりした特色があるが、とくに、注目したいのが特色の3番目にあげた“若いころ人工気胸術を受けたものに多い”という部分だ。
*EBウイルス=感染症としての原因のウイルスとがんウイルスとの両面を持つウイルス
人工気胸という名の肉体破壊
青島さんが高校時代に結核にかかり、長い間療養生活を強いられたことはよく知られており、直木賞を受賞した小説『人間万事塞翁が丙午』の中にはそれに関する記述が度々出てくる。その中には「人工気胸術」を受けているときの様子を記したものもあり、どのようなことが行われていたかリアルに知ることができる。
『医者はそのベッドに半分腰をかける格好で、かたわらの木箱の器械から出ているゴム管を持って近づく。見れば、管の先のほうに畳針ほどの針がついている。いきなりこの針を幸二の胸にブスッと突きたてた。(中略)これは、人工気胸とかで何でも肋膜腔(胸腔)に空気を入れて肺を押し縮めて、結核菌を弱める療法だとか、投薬とこれを平行して行うのが今最も効果的と考えられております、と言われればやめてくださいとも言えないが…』(青島幸男『人間万事塞翁が丙午』新潮社刊176頁)
青島さんが人工気胸術による治療を受けたのは高校2年生のときだったが、この荒っぽい治療法を受けたことが祟って、大学時代に胸腔に膿が溜まる膿胸(湿性肋膜炎)を患い、長い療養生活を強いられることになる。この膿胸は20代後半になるといつの間にか治ってしまったように見えたが、それは症状が出なくなっただけで、休眠状態(陳旧性慢性膿胸の状態)が長い間続いていたのだ。
この人工気胸という結核の治療法は今の医学常識からすれば思わず吹き出してしまいそうな原始的なやり方だが、昭和23年当時は、まだワクスマンがストレプトマイシンを世に送り出して間もない時期で、この人工気胸術が広く行われていた。この治療法によって現在も多くの方が低肺機能などの後遺症に苦しんでいるが、青島さんはそれが原因の疾患に1度ならず2度も苦しめられたのだから、その最大の被害者と言えなくもない。
4時間かかった手術
日大板橋病院で各種の検査を受けた青島さんは、主治医のS先生から夫人同伴で来院するよう連絡を受け、すぐ手術を受けるよう勧められた。青島さんはためらうことなくそれに同意し、早速入院の手続きに入った。
しかし、青島さんは悪性リンパ腫という病名を告げられたうえで手術に同意したわけではなかった。S先生は話すとなれば予後があまりよくないことも含め、事実を正確に話さなければいけなくなるので、とりあえず奥さんの美千代さんにだけ本当の病名を告げ、どのような形で青島さんに告知するか話し合う必要があると判断していた。
「(湿性肋膜炎で)以前血液が溜まっていたところに脂肪の塊が出来て、その周辺に腫瘍があるというお話でした。たしかに、検査で撮った映像を見るとそこだけ異常に映えているように見えます。完治させたいなら、全部取ってしまったほうがいいということなので、すぐ手術を受けることにしたんです。その時点では、私はまだ本当の病名を知らされていなかったけど、女房はS先生のところに一緒に行った時、告知を受けているんです。あのときは、先生の話が終ったんで帰ろうとしたら、女房だけ残るように言われたんです。ちょっと変だなあと思ったんで、そのときは冗談で女房に『これって、テレビで見るシーンとそっくりじゃないか。何かイヤな話があるんじゃないか』と言って先に帰ったんだけど、本当にそうだったんですよ」
手術は4時間かかった。膿胸腔にできた腫瘍のほかに、右肺の下3分の1と肋骨を4本切除したので、時間がかかったのだ。
これだけハードな手術を受けたにもかかわらず、手術後の青島さんは、いたって元気だった。手術の傷口が完全に塞がればすぐにでも退院できるものと思っていたからだ。番組に復帰したい気持ちでいっぱいだった青島さんは“撤収、撤収”と口癖のように言いながら、退院する日を心待ちにしていた。
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