35年間のがんだらけ人生を生き抜く〝3人の自分〟 4つのがんを体験した財政再建の鬼・与謝野 馨さん

取材・文●吉田健城
撮影●向井 渉
(2013年1月)

  
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よさの かおる
1938年東京生まれ。中曽根康弘氏の秘書を経て、1976年に衆議院議員初当選。文部大臣、通産大臣、自民党政調会長などを歴任。安倍晋三内閣では官房長官、麻生太郎内閣では財務・金融・経済財政の3閣僚を兼務した。民主党菅直人政権では経済財政担当相として入閣。政界随一の政策通として知られ、筋金入りの財政再建論者。歌人の与謝野鉄幹・晶子氏は祖父母にあたる。

「ベストの選択をするためには、あまり感情にとらわれない客観的な判断が必要です」下咽頭がんの影響で声を失い、2012年9月に政界引退を表明した与謝野馨さん。あくまでも冷静に客観的に、与謝野さんは35年にも及ぶ4つのがんとの闘いをこう振り返った──。

39歳の若さで濾胞性リンパ腫に

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趣味の囲碁で。アマ7段の腕前

与謝野馨さんが最初に経験したがんは、悪性リンパ腫の1つである濾胞性リンパ腫だった。

1977年、入浴中に右脚の付け根にゴリゴリとした感触のしこりがあることに気付き、定期的に健診を受けていた病院の医師に診てもらったところ、濾胞性リンパ腫が判明したのである。

告知されたあと与謝野さんは、医師が所蔵する医学書の中に、悪性リンパ腫に関する記述を見つけた。すると、平均余命2年という記述が目に留まった。当時、与謝野さんは39歳。1976年12月の衆院選で初当選してから10カ月しか経っていなかったので、その心中は察するに余りある。

「このときは精神的にかなり参りました。ただ選挙をやる身には、弱みを見せられないという宿命がありますから、がんが見つかったことは家族や秘書にも伝えず、自分の胸の内に秘めていました」

与謝野さんは大学病院で抗がん薬による治療を受けることになった。投与されたのはオンコビンと経口タイプのエンドキサン、それにステロイド薬のプレドニンの3薬である。副作用はどうだったのだろう?

「投与を受けた当日は体がつらくて動けませんでしたが、引きずることはなかったので、通常の政治活動に影響が出た記憶はありません。ただ、オンコビンの副作用による末梢神経障害で、手足の先端のしびれに悩まされました。その後、何年か経ってからアドリアシンの投与を受けたときは、ものすごい吐き気に苦しみました。頭の毛も全部抜け落ち、しばらくカツラの生活になり、思っていたより苦労が多く、大変でした」

そうした抗がん薬治療の真っただ中で迎えた79年10月の総選挙。与謝野さんは健闘むなしく落選。がんと落選のダブルパンチですっかり落ち込み、政治家をやめたくなった。

「このときはこれで終わりかと思いました。体力も不十分、資金力も不十分でしたから。ところが、すぐあとに大平正芳さんと福田赳夫さんの対立によって党内が分裂し、総選挙が8カ月後にきて、無事帰り咲くことができ、九死に一生を得ました」

その後10年ほど経過したのち、悪性リンパ腫は腸間膜に転移。与謝野さんはそのとき治療を受けていた国立がん研究センター(当時)で、化学療法と放射線治療を行った。そして告知から16年後の1993年。濾胞性リンパ腫との闘いにやっと終止符を打つことができた。



オンコビン=一般名ビンクリスチン エンドキサン=一般名シクロホスファミド プレドニン=一般名プレドニゾ

2つ目は直腸がんだった。

与謝野さんは2000年6月の総選挙でまさかの落選。それで時間ができたため、その年の8月、商社のロンドン駐在員をしていた息子さん一家を訪ねたが、訪英中ずっとひどい便秘に悩まされた。腹が重い感じもあったので帰国後、都内の大学病院で内視鏡検査を受けたところ、肛門から約10cmのところにがんが見つかったのだ。

大きさは4.5×3.0cm。与謝野さんは当初、大学病院で受ける予定だった手術をキャンセルして、国立がん研究センターに変更している。濾胞性リンパ腫の主治医から、直腸は、リンパ腫の治療でくり返し放射線を照射した部位に近く、もろい状態になっている可能性が高いため、放射線の治療歴を踏まえて手術を行う必要があると、助言されたからである。

病期は2期。幸いリンパ節などに転移はなく、がんの部分を含む、計40cmほど切除して、手術は無事終了した。

術後の経過も順調で、与謝野さんは16日目に退院の運びとなった。その後の経過観察でも異常は見られなかったため、結果的に直腸がんとの闘いは再発することもなく、1度の手術でけりが付いた形になった。

前立腺がんはホルモンと放射線で


小泉内閣では、国務大臣などの要職を歴任。写真は選挙時のもの

3つ目は2001年秋に見つかった前立腺がんである。きっかけは血尿だった。

血尿は放射線治療に伴う膀胱炎によるものだったが、検査で前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSA(前立腺特異抗原)の値が高いことがわかり、生検で前立腺がんであることが判明したのだ。

幸い、骨転移はしていなかった。国立がん研究センターの医師は、与謝野さんの希望や過去の治療データを勘案した上で、まずホルモン療法を半年ほど行ってがんを叩いてから放射線治療を行い、根治させるという治療方針を提示、与謝野さんもそれに従った。

根治を目指すには手術で前立腺を摘出するのが望ましいが、それができなかったのは、濾胞性リンパ腫の治療で、下腹部にくり返し放射線がかかっていることや、前年に前立腺と近接している直腸がんの手術を受けていたため、手術を行うと癒着が起きる可能性があったからだ。

「これについてはお医者さんの間で相当議論を重ねたようです。結局、手術で取るのはリスクが高いということで、ホルモン療法をしたあと、放射線をかけることになったんです」

その後、前立腺がんの治療は02年の秋に無事終了。そして翌2003年の衆院選で、与謝野さんは議席を回復した。

財政問題のエキスパートであり、自民党きっての政策通である与謝野さんは、その後、小泉純一郎内閣で経済財政・金融相として入閣。2006年9月に発足した安倍晋三内閣では、党の重要ポストである税制調査会会長に就任する。しかし、その直後に異変が起きたのである。それが、4つ目のがんだった。

党の重要ポスト就任直後に下咽頭がんが発覚


2007年の安倍内閣では内閣官房長官に。写真は会見時の様子

きっかけは、歯の痛みだった。行きつけの歯医者に行ったところ、クリニックを紹介され、そこで医師から「すぐにがんセンターに行ったほうがいい」と言われたのだ。受診先は頭頸部腫瘍科。すぐに生検が行われ、下咽頭がんが発覚した。

前立腺がんと同様、じつに淡々とがん告知を受け入れたという与謝野さん。ただ1つだけ医師に聞いたことがある。それが余命のことだった。

「平均余命は何年ですか?」

これに対し、医師から返ってきたのは、2年7カ月という回答だった。徹底的に治療に専念する必要がある――。そう判断した与謝野さんは、すぐに自民党の税制調査会会長の職を辞す手配をし、国立がん研究センターに入院。それと同時に、「万一のために」と、家族あてに遺書を残し、手術に臨んだ。

がんは下咽頭の粘膜の表面に広がるタイプで、4×4cmもあった。政治家という職業上、できれば声を残したい――。与謝野さんの希望もあり、主治医は声に影響が出ない治療法を選択した。声帯を残し、首のリンパ節と喉のがんの部分を切除。その後、がんを取って穴が開いた部分に、手首の皮膚を移植して再び喉を形作る再建手術を行うことになった。

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