死ぬまで競馬を愛し続けた勝負師 スキルス性胃がんに侵されながらも「馬一筋」を貫いた心優しき苦労人──。吉永正人さん(騎手・調教師)享年64

取材・文:常蔭純一
発行:2012年9月
更新:2019年7月

  
吉永正人さん 吉永正人さん
(騎手・調教師)
享年64

「吉永スペシャル」と呼ばれる独自の騎乗スタイルで多くの人たちを魅了し続けた3冠ジョッキーの吉永正人さんは、ジョッキー引退後、そして生の終わる瞬間まで競馬人として生き続けた──。

最期までジョッキーであり続ける

調教師の小島太さん

「吉永さんは多くの騎手に愛された人でした」と語る調教師の小島太さん

かつて競馬の世界で豪胆かつ奔放なレース運びで「勝負師」と呼ばれ、ミスターシービーでダービーなど4歳クラシックの3冠レースを制覇した元騎手は、スキルス性胃がんで入院していた病室で、死の前日に「ビールが飲みたい」と、妻だった女性に訴えた。

その一言は、騎手であった彼の競馬に対するさまざまな思いを集約したものだったかもしれない。

「騎手は皆、レース前に過酷な減量を強いられ、食事はもちろん水もろくに飲めない日が続きます。だからこそ、レース後の1杯のビールの美味さには得も言われぬものがある。そのビールには騎手として仕事を果たした充実感や達成感がともなっているのです。あの人の場合は体が大きく減量も厳しかったから、レース後のビールの美味さも人一倍だったことでしょう。病に伏せって後がないと悟り、最期にもう1度、騎手としての実感を味わいたいと願ってビールを求めたのではないでしょうか」

作家の吉永みち子さん

「武骨で不器用で時代遅れだけど、大きな優しさを持った人だった」と語る作家の吉永みち子さん

そう語るのは調教師、吉永正人さんの後輩で、今は小島厩舎のオーナーで、やはり調教師でもある小島太さんである。

当然ながら病室にビールがあるはずもなく、吉永さんの思いが叶えられることはなかった。吉永さんのかつての妻で、離婚後も1人の人間として吉永さんと交友を保ち、がんに罹患してからもずっと吉永さんを支え続けた作家の吉永みち子さんは吉永さんについてこう語る。

「わずかでも勝つチャンスがあれば、トップを狙いにいく昔気質の競馬人で、調教師になってからも競馬に自分の夢を重ね合わせていた。商売気など全くなく、がんを患ってからも自分の夢を実現させることばかり考えて続けていた。武骨で不器用で時代遅れで……。馬のこと以外は何にもわからない人だったけれど、大きな優しさを持った人でもあった。だからこそ厳しい勝負の世界で誰からも慕われていたのでしょう」

そうして2006年9月、多くの競馬ファンを魅了した元騎手で調教師の吉永正人さんは帰らぬ人となった。享年64と11カ月だった。

乗り鞍に恵まれなかった若手時代

騎手としては背が高かったため、減量に苦しんだという

騎手としては背が高かったため、減量に苦しんだという

吉永さんが競馬界の名門、松山厩舎の専属騎手としてデビューを果たしたのは1961年のことである。64年には「フラミンゴ」という馬で「きさらぎ賞」を制し、重賞初勝利をあげるが、騎乗機会には恵まれなかった。

「当時は所属厩舎の馬にしか乗れなかった。そのころの松山厩舎には野平祐二さんなど大騎手がいましたからね。体が大きく斤量が限定されることも吉永さんには不利な条件でした」

と、小島さんは言う。

当時、数少ない吉永さんのお手馬に「狂気の追い込み馬」といわれたゼンマツという牡馬がいた。当時、東京外語大学の学生だったみち子さんはこの馬に魅かれ、競馬にのめり込み、卒業後には競馬専門紙「勝馬」の記者となる。やがて「日刊ゲンダイ」に移り、初めての本格的なインタビュー取材がゼンマツの騎手だった吉永さんだった。だが、その仕事ぶりはお世辞にもスマートとはいえないものだった。

「カメラを持って行ったのに、フィルムを忘れてしまった。そういうと、あの人はプイと外に出て何種類ものフィルムを手にして帰ってきた。私のためにわざわざフィルムを買ってきてくれたのです」

それが吉永さんとみち子さんの初めての出会いだった。その後、みち子さんは徐々に1人の人間として吉永さんに魅かれ、そして結婚した。

結婚したあたりから、吉永さんの運も開けていく。シービークロス、モンテプリンスと強豪馬の騎乗を任されるようになり、とくにモンテプリンスで82年の春の天皇賞を制覇している。しかし吉永さんの名前が多くのファンの間でも知られるようになるのは翌83年、ミスターシービーに騎乗してからだ。

ファンを魅了した「吉永スペシャル」

それまでも吉永さんは最後方からの追い上げ、極端な逃げなど「捨て身」とも思える戦法をとる騎手として知られていた。

そうした思い切りのいい騎乗は詩人、劇作家で大の競馬ファンだった寺山修司さんにも愛され、寺山さんは自身の著作で吉永さんを「競馬の翳を負う男」と評し、クラシックレースの最高峰ダービーでの吉永さんの勝利を願い続けていた。

皮肉なことにその願いは83年、寺山さんが亡くなった直後に果たされる。その年のダービーで吉永さんは常識を覆す「吉永スペシャル」といわれた騎乗を展開する。

それまでダービーでは、第1コーナーで先頭から10頭以内に入らないと勝利は望めないとされていた。ところが吉永さんは第1コーナーを終えた後の向こう正面で、先頭から20馬身も離れた位置にミスターシービーをつけていたのである。誰もが吉永さんの騎乗ミスと考えた。競馬記者だったみち子さんもその展開に驚き、その位置からトップに届くのか、と心臓が破裂しそうな思いだったという。しかし、猛然と追い込みをかけ悠々と優勝を果たす。

「ミスターシービーはスピードに恵まれた中距離馬で、2000mのレースに適性があった。しかし、日本ダービーでは2400mの距離を走らなければならない。これはどう考えても長すぎる。そこで吉永は最初の400mではレースをせず、馬を遊ばせることにしたのです」(みち子さん)


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