子どもたちのために、未来の土台づくりに奔走する婦人科医 末期がんに鞭打ちながら、南相馬復興に命を懸ける――。原町中央産婦人科病院・高橋亨平さん

取材・文●常蔭純一
発行:2012年12月
更新:2018年10月

  
原町中央産婦人科病院の高橋さん原町中央産婦人科病院の
高橋さん

2011年3月11日、日本を襲った東日本大震災。未曽有の大災害のなか、末期がんを患った医師の高橋亨平さんは故郷を守るため残り、地元の人たちの治療を続けている。
彼は一体、何を遺すために闘い続けているのだろうか?

末期がんを患いながらも地域医療を守る

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高橋さんが治療を行っている原町中央産婦人科病院

「亨平先生は、まだ入院中じゃなかったかなぁ」

通りすがりの男性に、病院までの道順を訊ねると、その医師への親しみの深さを物語るような言葉が返ってきた。

2011年3月、福島の海岸地域は未曽有の厄災に見舞われた。地震、津波、そこに追い打ちをかけるような原発事故――。

そんななかで末期がんに侵された病身に鞭打って、地域の医療を守り、さらに復興に力を注ぎ続けている1人の医師がいる。南相馬市原町の原町中央産婦人科医院の理事長で、同市の医師会会長も務めた高橋亨平さん(73歳)である。

高橋さんはこの町で40年以上にわたって診療を続け、産婦人科医としてはもちろん、高血圧などの内科診療にも幅広く取り組み続けてきた。「亨平先生」という呼び方は、そうした地域に密着した医療活動を続けてきた証でもある。

震災後も高橋さんは診療活動を続け、原発事故が発生した後、わずか1日で避難先から戻り診療活動を再開した。さらに現在でも、放射能の除染活動など地域復興のためにさまざまな活動に取り組み続けている。福島県南相馬市にその高橋さんを訪ねた。

「避難勧告が出た後も1万人の人たちがこの地域に残っていました。その大半が医療の必要な年配の人でした。この人たちを見殺しにするわけにはいかない。それにこのまま手をこまねいていると、長年、住み慣れた南相馬の町が滅んでしまう。そう思うと、いてもたってもいられなくなったんだな。今は少しずつ軌道には乗ってきたけれど、復興への道のりはまだ遠い。正直、体はきつい。しかし、これから地域を支えてくれる子どもたちのために土台をつくっていかないと……。そのために、もう少し俺もがんばんないとなぁ」

と、高橋さんは病身を忘れたかのように、笑みをたたえながら語る。その笑顔には、どんな思いや希望が込められているのだろうか。

3月11日午後2時46分18秒――。

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2011年の6月の南相馬の様子。震災の爪跡が大きく残っている

そのとき、高橋さんは若い妊婦の診療中だった。何の前ぶれもなく突然、激しい揺れが起こり、診療機器が動き、診察ベッドが動く。高橋さん自身も立っていることもままならない状態に陥った。

「一瞬、何が起こったのか、わからなかった。揺れが収まったので診療を再開しようとしたら、また激しい揺れが……。状況を確かめようと外に出ると、近所の人たちがあそこもだめだ、ここもやられたと泣き叫んでいる。実際、そのときには原町だけでなく、小高、鹿島と南相馬のほとんど全域が津波にのまれていたんだ」

と、高橋さんはその日を振り返る。

翌日には通信が不能状態に陥り地域は混乱をきわめた。救援に駆けつけた自衛隊員も指揮系統が乱れ、右往左往を繰り返すありさまだったという。

さらにその翌日には、死体検案に出かけた。検案所となった高校の体育館に並べられた、泥まみれで全身を骨折した遺体の無残さに言葉を失ったという。しかし、そんな状況の中でも、否、そんな状況だからこそ高橋さんは病院を開け、診療を続けていた。

「地域の医師たちのほとんどが脱出して、この地域の医療は崩壊寸前だった。ここで自分まで出ていけば、残った人たちの面倒を見る者がいなくなる。地域を守るためにも何とか、踏ん張らなくてはと考えたんです」

だが、その高橋さんに撤収を決意させる出来事が起こる。福島第一原子力発電所での水素爆発事故だ。職員の安全を考え、高橋さんは地域の人々とともに会津若松市のホテルに避難を余儀なくされる。自分が診療を続ければ、職員も脱出できないとの判断によるものだ。

「苦渋の選択だった。職員にも生活や家族があるからね」

病院スタッフの姿を見て診療を再開

もっとも避難先のテレビで報じられたニュースを見て、高橋さんはすぐに病院再開を決断する。そこで高橋さんが目の当たりにしたのは、地元の病院でボランティアとして働く、高橋さんの病院の2人の看護師の姿があったからだ。

「その病院は医師も看護師もほとんどおらず、入院患者さんの食事や排泄の世話をする者もいない。そんななかでウチの病院の看護師が懸命に働いていたんだよ。その姿に勇気づけられたね。自分が頑張れば、ついて来てくれる者はいる。これなら病院も再開できると確信したよ」

そうしたスタッフの活動は、それまで24時間体制で、一貫して妊婦や高齢者の診療に力を尽くしてきた高橋さんの姿勢を物語っているに違いない。

そうしてわずか1日で高橋さんは原町に戻る。ちなみに高橋さんが病院に戻ったその夜に、急患の連絡が入り、夜の往診をこなしたという。

そして、病院再開の日には、高橋さんの復帰を祝福するように、多くの患者さんが訪れた。

「俺が戻ったと知って、多くの人たちが、避難先から町に帰ってきたんだ。医療の不安から避難した人がどれだけいたか。地域の人たちとの信頼関係や医療の重要性を再確認したね」

こうして高橋さんは診療活動を再開する。しかし次に待ちうけていたのは、自らの異変だった。

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