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鬼の演出家の志は役者たちに引き継がれた 最期まで闘い続けた演劇人は後進に囲まれこの世を去った──。野沢那智さん(声優・パーソナリティー・演出家)享年72
(声優・パーソナリティー・演出家)
享年72
声優という職業を確立した野沢那智さん。
その活動のバックボーンには演劇活動があった。
妥協なき演技指導で彼は一体、何を遺していったのか──。
生涯をかけて演劇に向かい合う
東京都中央区、人形町の声優養成所「PAC」(パフォーミング・アート・センター)では、各部屋に創立者の写真が飾ってある。俳優であり、ここで後進の指導を行っている菅谷勇さんは、その写真を見るたびに身の引き締まる思いを感じるという。
「とにかく怖い人でした。演技とは何かということを教えてくれた人でもあり、若いころ、あの人に徹底的に鍛えられたから今の自分があります。下手な教え方をすると、もうちょっと何とかしろ、と、あの人の罵声が飛んでくるような気がします」
菅谷さんがあの人というのは、アラン・ドロンなど多くの俳優の吹き替えを担当した声優で、同時に演出家として若手俳優たちの指導をしてきた野沢那智さんのことである。野沢さんの1人息子で現在は「PAC」の社長を務めている野沢聡さんは、父親の生き方についてこう語る。
「若いころから死の間際に至るまで、生涯を通じて闘い続けた人であったように思います。声優という職業を確立し、劇団を運営し、人を育てるその仕事は、父にとってはいろいろな意味で他者と、そして何より自分自身との闘いだったように思います。私をはじめ、遺された者たちで、彼の遺志を引き継ぎ、可能性のある人材を1人でも多く世に輩出していかなければならないと思っております」
野沢那智さんは2010年10月、肺がんで他界した。しかし、その志は今でも多くの後進たちに引き継がれ続けている──。
アルバイトとして始めた声優で一世を風靡
野沢さんが演劇活動を始めたのは1950年代後半のことである。国学院大学を中退して、劇団「七曜会」に入団。その後、俳優仲間と「薔薇の会」という演劇集団を発足させ、本格的な演劇活動をスタートさせる。しかし、野沢さんの存在を世に知らしめたのは、アルバイトで始めた声優の仕事だった。
60年代、テレビ放映されたシリーズ「0011ナポレオン・ソロ」の諜報員、イリヤ・クリヤキン役で、状況に応じて声調を使い分け、時として「お姉言葉」も発する軽妙洒脱な吹き替えで野沢さんは一躍、茶の間の人気者となる。
その後、野沢さんは「天才声優」と呼ばれるようになり、アラン・ドロン、アル・パチーノ、そしてブルース・ウイリスなど、主役俳優の吹き替えを任される。また、アニメでも「新・エースをねらえ!」「ガラスの仮面」など、数々の二枚目のキャラクターを任されるようになる。
野沢さんが仕事を拡大していく過程で、声優という新たな仕事のジャンルが確立されていった。それは決して偶然の産物などではなかった。
「野沢さんは吹き替えの仕事でも常に役者として、演技を心がけていました。他の人が演じた役柄を演じるのであれば、演じた俳優を超えるような演技を目指していたはずです。そのため、どんな役をやる場合でも、対象となる俳優の特徴や性格を徹底的に研究し、そのキャラクターに新たな命を吹き込んでいました。それがあの人気につながっていったのです」と、菅谷さん。
たとえば孤独な雰囲気のあるアラン・ドロンを演じる場合には、数日前から役柄に入り込むために人を避け、本番でも、1番端のマイクで人に背を向けるように演じていたようだと聡さんは話す。
また、野沢さんがニューヨークを訪ねた際、たまたまオフ・ブロードウェイでアル・パチーノの出演情報を入手し、観に行ったときのことを「彼の迫力ある演技に心底圧倒された。恐ろしくもあるが、彼のあの演技を超えなければ、吹き替えをする意味はない」と目を輝かせながら語ったという。
聡さんによると、配給元のアメリカの音響技師が、これもまた当たり役の1つであるブルース・ウイリスの声紋と野沢さんの声紋をチェックした際、波形が全く異なっているにもかかわらず、引き込まれてしまい絶句したという。もちろん野沢さんの吹き替えた声は日本でも高く評価された。
野沢さんは若い頃、自分の声を鍛えるためにオーケストラの曲を聴きながら、すべての楽器の音色と音程を声音で発するトレーニングに打ち込んだという。「天才声優」という呼称の陰で、努力と研究を積み上げ続けていた。野沢さんが声優という仕事に血肉をもたらすことができたのも、そうした人知れない努力の結果だった。そして、それが声優という仕事を社会に認知させる成果にもつながっていったわけだ。
その後、野沢さんの人気は、白石冬美さんと共に深夜放送「パック・イン・ミュージック」でラジオのパーソナリティーとしてもさらに高まっていった。
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