がんの病魔と果敢に向き合い、死のときまで作家であり続けた 稀代のストーリーテラー・マルチ才人はかくして死んだ──。中島梓・栗本薫さん(評論家・作家)享年56

取材・文:常蔭純一
発行:2012年2月
更新:2019年7月

  
中島梓・栗本薫さん 中島梓・栗本薫さん
(評論家・作家)
享年56

自らが、自らであり続けるために、人生を最期のときまで表現し続けた──。人々を魅了し続けてきた人気作家・中島梓・栗本薫さん。その人生は物語さながら、いくつもの世界が広がるものだった。


──心の中のどこかに、小さな小さな村があって、そこにはいつも何か面白いことを考えている少女やしっかりした大人の人、ピアノを弾く人、吝嗇な人などが暮らしていました。村のはずれには、暗い暗い森があり、そこには真っ黒な怒りが渦巻いていました──。

膵がんで死の淵にあっても、表現者たらんことを忘れず、病室のベッドでパソコンのキーを叩いて日誌を綴り続けた作家がいる。

全身が衰弱してキーを打てなくなると、ノートに筆圧の弱い文字を書き連ねた。そして眠りにつく前には必ずや、その"村のお話"を聞くのが習慣となっていた。パソコンで書き続けられた日誌の文字は「5月1……」と書かれたところで途切れ、作家の意識がなくなった後もその話は続いた。

それを意識もないまま、いつもと同じように聞いたその翌日、作家は静かに息をひきとった。こうして中島梓・栗本薫さんは、不帰の客となった。

「書く」ことで自分を保ち続けた

「私にとっては、彼女はいつも何かを夢見ている少女だった。小説、評論、音楽と分野を越えて仕事を続けていましたが、それは結局、自分を保ち続けるための行為だったようにも思えます。自分の中にいくつもの異なる側面を持った壊れやすい人で、表現することで自分を保ち続けていた。彼女は自分であり続けるために最後まで執筆を続けていたのです」

こう語るのは中島さんの夫で、日本でSFブームの基を築いた「S-Fマガジン」の元編集長、今岡清さんである。

中島さんの友人でジャズ歌手の水上まりさんは中島さんについてこう語る。

「彼女のピアノの師匠、嶋津健一さんのお話でしたが、ピアノ演奏でも最初はかなり荒いところもあったそうです。それが、膵がんの手術後はタッチが柔らかくなり、表現が繊細になっていったということです。他のプレーヤーとともに楽しむようになっていた。いろんな葛藤を抱えていた人ですが、最期は穏やかな境地に達していたのではないでしょうか」

夫の今岡清さん

「いちばん不幸で幸せな少女」と、中島さんを表現する夫の今岡清さん
歌手の水上まりさん

ジャズをともに楽しんだ歌手の水上まりさん。中島さんは、「誕生日の夜に」という曲を水上さんに託した

世界で1番長大な物語

中島さんが作家として注目を集めるのは、1978年に『僕らの時代』で第24回江戸川乱歩賞を受賞してからのことである。しかし、それ以前、早稲田大学在学中から、一部では若手文学評論家として知られる存在だった。そのころからともに仕事を始めていた今岡さんは、当時の中島さんについてこう語る。

「早稲田に面白い女の子がいる、と聞いて会ってみると、その通りだった。才気にあふれ、話題が豊富で話が終わらない。それですぐに評論の仕事をお願いした。小説も書くというので、そちらも依頼しようと思っているときに江戸川乱歩賞受賞を知らされました。もっとも彼女はそれ以前から、少年愛をテーマにした『真夜中の天使』など自分で小説を書いていました」

今岡さんが聞かされたところによると、中島さんは江戸川乱歩賞を受賞するために『ぼくらの時代』を書いたという。爆発的な読書力を持つ中島さんは、すでに選考委員の作家たちの作品を読み尽くしており、評価傾向を捉えたうえで執筆していたのだ。読むことだけでなく、書くことについても中島さんは怪物的だった。

「締め切りの日に原稿を受け取るために喫茶店で会うと、ちょっと待って、と、その場で音読のスピードで原稿を書き始めるということもありました。また、完成した原稿はほぼ例外なく、手直しもなく依頼通りの枚数に収めてしまう。書き始める前に彼女の頭の中では完全な形で小説が完成していたのでしょう」

と、今岡さんは述懐する。その中島さんの姿に、今岡さんは思わず、デッサンなしで絵を仕上げる漫画界の巨匠、手塚治虫さんを重ね合わせていたという。

そうして中島さんはSF、ファンタジー、ミステリーとジャンルを越えて、作品の発表を続け、79年には死の間際まで執筆を続けたライフワーク『グイン・サーガ』の第1巻を発表する。豹頭の戦士グインを中心に、2000人に及ぶ主要登場人物の人生を描いた物語で正伝130巻、外伝21巻にも及ぶ世界でも最も長大な物語だ。そして、その2年後中島さんは今岡さんと結婚する。

「彼女にとっては小説は単なるエンターテイメントではなく、登場人物は骨肉を備えた人間でした。そのためにさわやかだった青年が狡知にたけた人物に変わっていくこともあった。また複雑な自らの内面をより次第に深く掘り下げるようになり、作品は初期のころのエンターテイメント性が薄れ、よりマニアックな方向に傾きました」

と、今岡さんは話す。

いくつもの人格を自らに抱える

今岡さんによると、中島さんには多重人格のような性格傾向があり、自らのなかにいくつもの異なる側面を抱えていた。そのなかにはテレビのクイズ番組に出演していたときのようにお茶目な面もあれば、幼少時のトラウマを抱え続ける壊れやすい一面もある。

クリスマスや誕生日などの記念日になると、ネガティブな側面が現われ、「楽しまなくては」と強迫観念にとらわれ、苛立ちや怒りを爆発させた。

そんな中島さんを鎮めるために、今岡さんは、中島さんの内面に潜むいくつものキャラクターを登場人物に仕立てた"村のお話"を創作し、不眠に苦しむ中島さんに話し聞かせていた。

中島さんの作風はそうした複雑な自らの内面を反映したものが多く、登校拒否、拒食症、リストカットをくり返す少女など、心に傷を抱えた人たちから、絶大な支持を集めるようになった。

中島さんは作家としてデビューした後、文学以外の分野にも活動領域を広げていった。幼少時にピアノを習い覚えたこともあって87年には作家でシャンソン歌手でもある戸川昌子さんの発案でミュージカルの「ミスター!ミスター!!」の脚本、音楽を担当。やがて自らもプロデュースに着手する。

また作家デビュー直後からロックバンド、ジャズと音楽活動にも取り組み、趣味の分野でも洋裁、料理で際立った発想力を見せつける。

そんな中島さんの体調に異変が現われたのは07年の秋ごろのことだった。


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