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死を恐れず、生の限界まで仕事を続けた稀代の辛口人 世論を笑い飛ばした名コラムニストは最期までペンを握り続けた──。山本夏彦さん(コラムニスト・編集者)享年87
(コラムニスト・編集者)
享年87
飽くなき好奇心を持ち、世間を見物し、"夏彦節" ともいわれる独自の視点で浮世を笑ってきた名コラムニストの山本夏彦さん。
最期の時もその姿勢は決して揺るがなかった──。
死後に残された50冊の手帳
──8月20日 蟬今年は少し、死んだのを見る。赤とんぼ見ず、水ないせいか
──8月23日 マッサージ。7時-8時散歩。体重計買う。¥2604 体重計 花王シャボン
その人が遺した50冊の手帳の最晩年の1冊に記されたメモ書きである。他の手帳にも同じように、ダイアリー欄には黒いインクで細かな文字がびっしり書き込まれている。それは日々の暮らしの中での雑感を記した日記帳であると同時に、辛口コラムニストとして知られたその人の執筆活動を支える、いわばネタ帳でもあった。
「自分が見たこと聞いたこと、父は何でも手帳に書き留めていた。父にとってはそれが生活の一部になっていました。自らの日々の暮らしで得た生活者としての実感を政治、経済につなげて世相を切り取っていたのです」
こう語るのはその人、山本夏彦さんの長男で、新潮社で雑誌「フォーカス」の編集長を務め、山本さんが胃がんで他界した後、山本さんが創刊したインテリア雑誌「室内」の編集長を務めた山本伊吾さんである。
その「室内」編集部で死の直前まで共に仕事を続けた鈴木真知子さんはこう話す。
「山本さんと出会って、それまで持っていた常識や価値観がガラガラと音を立てて崩れていくように感じました。突飛なようで的確に世の中や人間の本質を言い当てている。同じ物を見るにしても、いろんな角度があることを知りました。私にとっては常に前方から、進むべき方向を指し示してくれる道標のような存在でした」
がんが見つかってからも、山本さんは動じることなく同じ姿勢で仕事に向かい合った。そして1人の編集者として、またコラムニストとして恬淡と世を去っていった。享年87だった。
電話帳を見て工作社を設立
それまでフランス文学の翻訳や雑誌編集の仕事をしていた山本さんが工作社という住宅やインテリアに関連した出版社を立ち上げたのは1950年のことである。その5年後の55年、後に「室内」と改題される雑誌「木工界」を創刊する。もっとも山本さんは、とくに住宅やインテリアに関心があったわけではないという。
「父は人には、電話帳で調べて会社をつくったと言っていた。当時は住宅やインテリア分野での専門誌がなく、この分野なら競争相手がいないので成功すると考えたということです」
と、息子の伊吾さんは言う。
当時は戦後の混乱期から高度成長期に移行する建設ラッシュの時代だった。そんな時代の波に乗り、雑誌は順調に推移、山本さんは59年から自分の雑誌で「日常茶飯事」というコラムの連載を開始する。このコラムが出版界や一部読者の間で注目を集めることになる。
「『室内』には専門誌では珍しく随筆欄も設けられており、そこに住宅やインテリアとは関係のない各界の著名人も寄稿していた。そこに夏彦人気が重なり『室内』は若手の物書きたちの登竜門としても知られるようになりました」(伊吾さん)
そんななか、山本さんは仕事の範囲を広げ、月刊誌や週刊誌で相次いでコラム連載を開始する。なかでも山本さんの名を世に知らしめたのが79年から開始され、他界するまで続いた「週刊新潮」誌での「夏彦の写真コラム」だった。辛辣だがさりげないユーモアも交えて、世の風潮を喝破する語り口は多くの「夏彦ファン」を獲得する。
決して大所高所からは物を語らず、女、子どもの視点で世相を切り取って世の中を笑い飛ばす。わかりやすく、しかも物事の本質が捉えられているから読み手も腑に落ちる。そうだったかと納得する人もいれば、反発する人もいた。
それはたとえばこんな具合だ。
「テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを『茶の間の正義』と呼んでいる。眉つばもののうさん臭い正義のことである」
「身辺清潔の人は、何事もしない人である。出来ない人である」
「人はわかって自分に不都合なことなら、断じてわかろうとしない」
(いずれも中公文庫、『茶の間の正義』より抜粋)
70年代半ばに工作社に入社した鈴木さんは、同僚たちとそうした「夏彦節」を古典落語のようだと話していたという。
「練りに練って、削ぎに削ぎ、1つの話を完成させる。そのせいでしょう。同じ文章を何度読んでも、同じところで納得し笑ってしまう。飽きるということがないのです」
ちなみに鈴木さんは先輩社員から山本さんについて、「いるだけで社内が緊張する怖い人」と教えられたが、そのころには別人のように気さくな人柄に変わっていたという。ときには編集者を引き連れて老舗料理店を訪ね、校了時には夜食に弁当を差し入れる心配りも見せていた。また山本さんは、家庭でも「辛口」の人だった。
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