「マンガの神様」が最期まで続けた挑戦 力尽きるときまで描き出したのは、命の輝きだった──。手塚治虫さん(マンガ家)享年60

取材・文:常蔭純一
発行:2012年4月
更新:2019年7月

  
手塚治虫さん 手塚治虫さん
(マンガ家)
享年60

天才・手塚治虫さんのマンガは戦後から立ち上がる日本の子供たちにメッセージを送り続け、そのメッセージは、今もなお生き続けている。
手塚さんが作品に吹き込んだ息吹とは──。


埼玉県新座市にある手塚プロダクション4階のアトリエは、かつて多くの人たちの胸を躍らせた名作マンガの最後の制作現場だった。部屋の主が目を近づけて作業するため、脚の下に台座を敷いて高くしたデスク、そのデスクの上には、半分軸を折った何本ものペンや鉛筆が置かれ、デスクの周囲の書架には700タイトルに及ぶ自らの著作が整然と並べられ、部屋の隅に置かれたレコードプレーヤーのターンテーブルにはBGMとして聞いていたベートーヴェンが乗せられている。今もその部屋では、いつでも仕事が再開できる準備が整えられている。

もっとも実際には、その部屋は長らく使われておらず、おそらくこれからもそこで仕事が行われることはない。部屋の主、手塚治虫さんは23年前に胃がんで他界しているのだから──。

手塚さんが最後の制作を行っていた部屋 ソファには手塚さんの人形が置かれている
手塚さんが最後の制作を行っていた部屋は、当時のままの状態に。ソファには手塚さんの人形が置かれている。手塚さんは仕事の傍ら、このようにして仮眠をとっていたのだろうか

今も生き続ける「神様」の仕事

手塚眞さん

「小さな虫にも命があると感じる一方で、戦争で多くの人が亡くなっていくのを目の当たりにし、命の尊厳について考え続ていたことが父の作品の根源にあるのだと思います」と話す、長男で、映像作家の手塚眞さん

松谷孝征さん

「子供たちを強く意識し、命のメッセージを込めていた手塚先生の作品ですが、読み直す度に新たな発見をしています」と手塚プロダクション社長の松谷孝征さん
 

「この部屋で先生が仕事をされていたかと思うと、しのびなくてとても閉められない。先生の仕事は今も生き続けているのだから。おそらくご遺族も同じ気持ちではないかと思います」

こう語るのは、手塚さんのマネジャーとして長きにわたり共に仕事を続けた現・手塚プロダクション社長の松谷孝征さんである。松谷さんが手塚さんの仕事部屋を生前と同じ状態に保っているのは、手塚さんの存在の大きさをそのまま物語っている。

「戦前にも新聞漫画など、漫画はあった。父はそうした従来の漫画とは異なるストーリーを伴った〝マンガ〟の創造者だった。父の描くマンガはどんなに悲惨な状況を描いても最後には希望があった。だからこそ読者はもちろん、後に続く多くのマンガ家に影響を与え得たのでしょう。その意味で父は、太陽のような作家だったと思っています」

と、語るのは手塚治虫さんの長男でヴィジュアリストの手塚眞さんである。

昆虫と戦争が与えたもの

手塚治虫さんが「マアちゃんの日記帳」でマンガ家デビューしたのは、終戦まもない昭和21年、手塚さんが医学生だったときのことである。翌年発表した「新宝島」(原案・酒井七馬)は、それまでにない少年向けストーリーマンガで社会的にも注目を集める。昭和25年からは少年誌を中心に「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」さらに手塚さんのライフワークとなる「火の鳥」などのヒット作を次々に発表、新たなマンガ界のリーダーとなる。なかでも「鉄腕アトム」は、昭和38年に日本初の30分のテレビアニメシリーズとなり、後のアニメ界に大きな影響を与えている。

また、これらの作品は、一般読者だけでなく、マンガ家志望の若者たちをも強く魅了した。当時、手塚さんが在住した東京豊島区のアパート「トキワ荘」には、藤子不二雄Aさんと故・藤子・F・不二雄さん、故・赤塚不二夫さんなど手塚さんに触発された若者が集結、若手マンガ家の梁山泊としての様相を呈していた。

そうしたブームの中で、手塚さんの仕事場は何社もの編集者たちが列をなし、そこで寝泊まりしていた。彼らの要望に応え手塚さんは、ひたすら仕事に没頭する。長男の眞さんは当時の手塚さんについて、「ただただ忙しかった。父との食事は週に1度あるかないか。たまに自宅にいると、あの手塚治虫が家にいると感じました」という。

昭和48年に編集者から手塚さんのマネジャーに転身した松谷さんも、「先生は仕事を断らない。『(手一杯で)無理です』とダメ出ししても、『どうせ締切は守れないのだから』と、笑っている。15分だけ眠らせてとソファに横になり、寝たままの姿勢で仕事をしていたこともありました」という。

そんな過酷な状況でも手塚さんの作品は、人を惹きつけて離さなかった。その魅力について眞さんはこう語る。

「父は稀代のストーリーテラーで、小学校時代には学校帰りにこんなことがあったと作り話で皆を夢中にさせていた。また父は幼少から昆虫好きだったことに加えて、戦争の惨禍を間近で見ていたこともあり、常に生命の尊厳について考え続けていた。父の作品に深みがあるのは、そうした根源的なメッセージが込められていたからではないでしょうか」

同様に松谷さんも指摘する。

「正直、小学生のころに読んだ鉄腕アトムには魅力を感じなかった。しかし仕事を依頼するために先生の事務所に2カ月半い続けている間に読み直すと、その面白さに舌を巻かざるを得なかった。生命の尊さ、その生命を脅かす戦争の虚しさなど、先生の作品には、何重ものメッセージが隠されていたのです」松谷さんはその後も何度となく、「鉄腕アトム」を読み直す度に新たな発見をしているという。

「子供に100%の作品を」というこだわり

手塚さんは同時に完全主義の人でもあった。松谷さんはマネジャーになった後に手塚さんのこだわりに何度も驚かされた。

「先生は執筆を終えると作品の出来をスタッフにたずねることがある。ブラック・ジャックという作品を執筆中、スタッフに感想をたずねるとアシスタントの1人が『イマイチですね』と答えたことがあるんです。その言葉を聞くや先生は再び仕事場に引きこもり、ほとんど完成している作品を1から描き直し始めた。担当編集者は怒って壁を素手で叩き割っていたが驚いたことに翌朝には、ずっと素晴らしい作品が完成したのです」

子供に嘘はつけない。自分の100%の作品を送り届けたい。そんな思いと共に手塚さんは仕事に取り組んでいた。

手塚さんのこだわりは細部にも及んだ。背景で群衆を描くときもアシスタント任せにせず、1人ひとり異なる人間を描いた。そんなこだわりを支えていたのが手塚さんならではの好奇心だ。松谷さんは近所で火事があったとき、手塚さんと一緒に現場に出かけて驚いたことがある。

「先生は火事などそっちのけで足の踏み場はこうなっているのかと消防車に見入っている。この旺盛な好奇心が作品のディテールにつながっているのかとおかしな納得をしたものです」

そんな一方で手塚さんは仕事のスタイルにはこだわりを持たなかった。描きやすいようにペンを半分に折り、原稿用紙はペラペラの薄い紙、臥せたままでも揺れる車の中でも描いた。そして仕事を終えた後は「すみませんでした」と子供のように無邪気な笑顔を見せたという。それは編集者やスタッフには何よりのご褒美であった。

「それまでどんなにイライラさせられても、あの無垢笑顔を見ればすべて許せる。先生の笑顔にはそれほどの魅力がありました」と、松谷さんはいう。


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