アメリカ帰りのブルース歌いは、静かに日本の大地に沈んだ 「兄貴」と慕われたその人は、何も言わずに1人で去った──。デイブ平尾さん(歌手)享年63

取材・文:常蔭純一
発行:2012年6月
更新:2018年10月

  
デイブ平尾さん デイブ平尾さん
(歌手)
享年63

日本の音楽シーンの礎を築いたバンド・ゴールデンカップスのヴォーカル、デイブ平尾さん。華々しいその世界の中で、デイブさんはどう生き、何を遺したのか──。


ミッキー吉野さん

デイブ平尾さんを「兄貴のような存在」と慕ったミッキー吉野さん

日本の音楽界屈指のキーボードプレーヤー、ミッキー吉野さんにとって、その知らせは青天の霹靂だった。

「術後の経過は順調で、あと2、3日すれば面会もできると知らされていた。彼は音楽仲間であると同時に、兄貴のような存在で、何より40数年来の友人でもありました。その人がいなくなったことが今でも信じられません」

1人ぼっちで死んでいった

9人兄弟だったデイブ平尾さんの長姉、平尾富子さん(左)

9人兄弟だったデイブ平尾さんの長姉、平尾富子さん(左)は、平尾さんの柩を乗せた車をゴールデンカップの前に停車させ、別れを告げさせた

9人兄弟の長女で、その人の母親役を引き受けていた平尾富子さんは、今もその死に際が不憫でならないという。

「入院後は毎日、姉妹何人かで病院を訪ねていました。にぎやかなことが好きなガキ大将で友だちも多かった。手術後も筆談で冗談を言っては笑っていた。それがある日の未明、突然、容態が悪化して誰にも看取られずに亡くなった。1人ぼっちであの子を死なせたことが悔やまれてなりません」

富子さんがあの子というのは、かつて日本の音楽シーンに旋風を巻き起こし、「伝説のバンド」と称されるゴールデンカップス(以下カップス)のリーダーでヴォーカルを担当していたデイブ平尾さん(本名平尾時宗)である。

平尾さんは1960年代終わりから70年代にかけて、日本の音楽界にブルースやリズムアンドブルースを伝え、やはりがんで亡くなった忌野清志郎さんや矢野顕子さんなど、影響を受けた多くのミュージシャンから兄貴分と慕われていた。日本のロックミュージック界全体のガキ大将のような存在だった。しかし、その死はあまりにも唐突で、一抹の寂しさを感じさせるものだった。

日本には珍しい実力派シンガー

ライブハウス「ゴールデンカップ」

当時日本ではまだ珍しかったライブハウス「ゴールデンカップ」は一世を風靡した。そしてここでゴールデンカップスが生まれることになる

 
上西四郎さん

「日本にもこんな歌い手がいたのか」と当時のデイブ平尾さんについて振り返る、上西四郎さん

横浜市本牧──。

今でこそ一般の住宅やマンションが立ち並ぶ穏やかな住宅街だが、60年代は駐日米兵が闊かっ歩ぽする、日本であって日本ではないような土地柄の街だった。平尾さんの音楽活動はこの街でスタートした。

平尾さんが音楽を始めたのは、高校時代に富子さんに日劇ウェスタンカーニバルに連れて行かれたことがきっかけだった。

エレキギターやドラムの喧騒の中で平尾さんは、「不良の音楽」といわれたロカビリーに魅せられ、すぐに友人を集めてバンドを結成、勉強そっちのけで音楽活動に明け暮れる。心配した富子さんは、大学時代に音楽を忘れさせようとアメリカ旅行をさせるが、逆にそれが火に油を注ぐ結果となった。

「アメリカでは昼はレコード店巡り。夜はライブハウスやコンサートに出かける毎日だったらしい。おまけにあるコンサートの会場で、同じように横浜でバンドをやっていたエディ藩君と出会い、日本に帰ったら一緒にやろうと約束したらしいのです」

と、富子さんは述懐する。

日本に帰った平尾さんは大学を中退して本格的に音楽活動にのめり込む。そうして66年、当時はまだ物珍しかった本牧のゴールデンカップというライブハウスの専属バンドに採用されることになる。

「平尾君のハスキーヴォイスは僕には心地よいショックだった。オーディションで歌った"サニー"を聞いて、日本にもこんな歌い手がいたのかと思った。それで1曲聞いて、『すぐに明日から来てくれ』といいました」

こう語るのは現在も同じ店でオーナーを務める上西四郎さんである。

ゴールデンカップス

日本の音楽シーンに旋風を巻き起こした、メンバー全員がハーフのふれこみのゴールデンカップス。デイブ平尾さんはそのリーダーでヴォーカルをつとめた

平尾さんたちの音楽はすぐに注目を集め、毎日のように東京から音楽関係者がゴールデンカップに足を運ぶようになる。そして人気歌手、黛ジュンさんの呼びかけで、1年余り後に平尾さんはメンバーを一新、カップスとして「愛しのジザベル」でレコードデビューを果たす。新メンバーの中にはアメリカで出会ったエディ藩さんも含まれている。

「全員がハーフ」をふれこみにしたカップスはデビュー後も快進撃を続けた。後にテレビCMで話題になった「長い髪の少女」「愛する君に」とヒットを連発し、日本で1、2を争う人気バンドとなる。富子さんは、連日、平尾さん目当てに押しかける女の子たちを、「せっかく来てくれたのだから」と、平尾さん不在の家に上げ、話を聞いていたという。もっともそんななかで平尾さんの思いは複雑だったようだ。

「時宗はもっと洋楽っぽい曲を歌いたかったのでしょう。ヒットした曲について、あまり好きじゃないといっていたこともありました」

と、富子さんはいう。

ミッキー吉野さんが平尾さんに口説かれてカップスに参加したのもそのころのことである。

「母音のアイウエオをハヒフヘホと発音する時さん独特のヴォーカルが好きだった。あんな歌い方をしたのは坂本九さんと時さんくらいでしょう。それに何よりカップスは当時、1番の音楽性を持つバンドだった。カップスに入れたから、僕はずっと音楽を続けられたのです」

その後、ミッキーさんは単身、渡米してバークリー音楽院で本格的に音楽を学び、帰国後、ゴダイゴというバンドを結成する。

このミッキーさんのケースもそうだが、カップスは同じメンバーの出入りが激しい。それは平尾さんが脱退も再加入もすべて自由にしていたからだ。平尾さんは人に対しても、そして自分自身に対しても何の縛りも設けない自由な人生を送り続けた。そのことも人を惹きつける磁力だったに違いない。

カップスの絶頂の時代は長くは続かなかった。アイドル化されたグループサウンズはやがてファンに飽きられ、ゴールデンカップスの人気にも陰りが表れ始めた。そうして72年沖縄でのコンサートを最後に平尾さんが結成したゴールデンカップスは解散する。最後の曲となった「長い髪の少女」の演奏中に会場で火災が発生し、楽器の大半が焼失する災厄のなかでの終宴だった。


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