突き進んで生きるその源には、ユーモアと独自の哲学があった いくつもの才能を開花させて、風のように去って行った──。青島幸男さん(作家・タレント・政治家)享年74

取材・文:常蔭純一
発行:2012年5月
更新:2018年10月

  
青島幸男さん 青島幸男さん
(作家・タレント・政治家)
享年74

放送作家、タレント、作詞家、俳優、映画監督、小説家、政治家……。そのたった1つの人生の中に、いくつもの花を咲かせた超マルチ人間・青島幸男さん。青島さんは、その人生をどのように駆けぬけていったのか──。


ぜにのないやつぁ俺んとこへこい俺もないけど心配すんな……。

軽妙なユーモアと底抜けの明るさを持つこの詞は、ハナ肇とクレージーキャッツの1964年のヒット曲「だまって俺についてこい」の一節である。東京オリンピックの開催など、右肩上がりの時代性を予測してか、この曲は爆発的ヒットを記録した。そして、同時にこの歌詞は作詞者の生き方をも体現するものでもあった。

夢中になれば道は開ける

長女の青島美幸さん(左)と美千代夫人(右)

父親の青島さんを「幸男ちゃん」と呼び、友だちのように親しんだ長女の青島美幸さん(左)と美千代夫人(右)

「テレビのコント、小説、そして政治……。江戸っ子気質といえばいいのでしょうか。好奇心旺盛で新しい仕事を見つけては全力で取り組んでいた。幸男ちゃんの周囲には、いつも明るさと笑いがあった。楽天的で、自分が面白いと思うことをやれば道は開けるといい続け、その言葉通りに生きた人でした。群れることを嫌い、妥協を潔しとしない孤高の人でもあった。本人もそんな生き方に納得し、満足していたに違いありません」

と、語るのはこの曲の作詞家で参議院議員、東京都知事と政治の世界でも長きにわたって要職を務めあげた青島幸男さんの長女で、エッセイストの青島美幸さんである。美幸さんは友だちのように親しんだ父親の青島さんを「幸男ちゃん」とも呼んでいたという。

青島さんが東京都知事の仕事を終えた後、骨髄異形性症候群という血液がんで亡くなったのは2006年12月。その死に際も、いかにも青島さんらしいものだったと美幸さんはいう。

「入院中も息を引きとるその日まで元気で、私も母もすぐにまた以前と同じ暮らしに戻ると思っていました。それがある日突然、容態が急変し、あっけなく他界してしまった。何の前ぶれもなく、まるで気が向いたからフラリとご近所に散歩にでも出かけるように父は彼岸にいってしまった」

こうして、それまでの74年の人生に符牒を合わせるかのように、青島さんは軽やかに自らの生を終えた。

生と死を突き詰めた青春

ユーモアセンスが買われ、あれよという間に売れっ子放送作家に

ユーモアセンスが買われ、あれよという間に売れっ子放送作家に。月に2000枚もの原稿用紙にコントを書いていた

才人、青島幸男の出発点はテレビでの仕事だった。1950年代、放送開始と同時にテレビ受信機は日本中に怒涛の勢いで普及を続け、次々とテレビ局が開局した。青島さんはそんな「テレビの時代」の寵児だった。もっともそこに至るまでの人生は病との対峙だった。

青島さんは東京日本橋の仕込み弁当屋の次男として生まれているが、青年期の早稲田大学、大学院時代には胸を病み、長い闘病生活を強いられている。

「最初は結核で次に肺に膿がたまる膿胸を患い、何年も療養していました。友人たちが実社会で活躍しているのに自分は為すすべもなくベッドでの生活を余儀なくされている。その間に自らの人生を見つめ、悩み続けていたのでしょう。だからこそ、あれだけ吹っ切れた生き方ができたのでしょう」

と、語るのは14歳のときに青島家の養女となり、後に青島さんの妻となった美千代さんである。もっとも結婚と同時に病気は全快。それからは病気との縁が切れたという。そして放送作家として青島さんの快進撃が始まった。「おとなの漫画」「シャボン玉ホリデー」……。50代以上の人たちには忘れられない番組で一世風靡したのだ。青島さんは月に原稿用紙2000枚も放送台本を書いていたと、美千代さんはいう。

「テレビの時代」の寵児

しばらくすると洒脱なユーモアセンスが買われ、青島さんはタレントとしても重用される。66年から放映された「泣いてたまるか」に主演、圧倒的な視聴率を獲得し、青島さんは茶の間の人気者になった。さらにその後、映画製作にも着手する。何足ものわらじを履きこなす慌ただしい生活。しかし青島さんは自らの生活ペースを見失わなかった。

「学生時代には夏になると週末は必ず家族全員で下田の海で魚を獲って遊び、冬場には両親と私と弟、家族が揃いのダッフルコートで出かけたものでした。日曜大工は玄人はだし。また手先が器用で、弟のズボンにアップリケの継ぎ当てをして恥ずかしがられたこともある。家族全員が仲のいい友達同士だった。父は、仕事も楽しみながら、私たち家族との時間も面白がってしていたようでした」

と、美幸さんはいう。

先駆けのタレント議員

その青島さんがメディアの世界から今度は政治の世界に飛び出していく。68年の参議院議員全国区で青島さんは現都知事の石原慎太郎さんに次ぐ第2位の得票数で当選を果たし、「タレント議員」の先駆けとなる。

タレント議員という言葉の響きの軽さとはうらはら、青島さんはずっと以前から政治への志を抱いていた。

「個別の政策がどうこうというわけではない。それよりもお金まみれになっていた日本の政治の在り方をクリーンでシンプルなものに変えたいと願っていた。35歳になるのを待って参議院選に立候補したスローガンも、『参議院を良識の府として再建する』というものでした」

と、美千代さんは語る。

そんな青島さんの面目が遺憾なく発揮されたのが、71年の議会での故・佐藤栄作首相との質疑応答だった。政治家と財界との癒着構造について「それじゃ総理は財界の男妾じゃないか」と一刀両断に切って捨てたのだ。

また2期目の選挙からは費用を使わないために一切、選挙運動を行わない独自の選挙戦を展開する。候補者全員がテレビで話すための政見放送が実現されたのも青島さんの手腕のたまものだ。さらに後の悪性リンパ腫から復帰(後述)した後には、当時、問題になっていた政治家の献金疑惑に絡んでハンガー・ストライキも挙行した。

こうした青島さんの政治生活のいわば総決算が東京都知事選だった。この出馬について青島家と長きにわたって家族ぐるみの付き合いを続けている放送作家の川島常稔さんはいう。

「その少し前に仲間内で温泉で宴会をしたときに、作家の飯干晃一さんが『次の都知事は青島しかいない』と演説した。そのとき青島さんは納得したように頷いていた。その表情にやる気だなと感じました」

現実の選挙では4党相乗りの元官僚候補がダントツの大本命だった。美幸さんによると青島さんは「こんな選挙があるか」と珍しく怒りを露わにしていたという。そして「このまま当選させていいのか」と名乗りを上げたところ、誰もが驚いた大逆転劇が演じられたのだ。

都知事に就任した青島さんは、公約通り世界都市博覧会の開催を中止し、4年の任期を全うして政治家としての仕事を終える。30年近く政治に携わりながら、青島さんは政界の泥にまみれることなく、一般市民と同じ素人感覚を保ち続けていた。その意味でも青島さんの生き方はさわやかで軽やかだった。


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