NPO法人血液患者コミュニティ ももの木 副理事長/大橋晃太
入院患者の生活の場に人間的な温かみを

撮影:板橋雄一
発行:2005年2月
更新:2013年4月

  

大橋晃太

おおはし こうた
1972年東京都生まれ。東京大学大学院工学研究科在学中の98年に骨髄異型性症候群(RAEB-T)を発病。東大病院入院中に患者会「ももの木」の立ち上げに携わる。03年東京大学大学院博士課程卒業。東京大学大学院研究生を経て04年東京医科歯科大学医学部医学科に編入。現在在学中。

俵  萠子

たわら もえこ
大阪外国語大学卒。サンケイ新聞記者を経て1965年より評論家・エッセイストとして活躍。95年より群馬県赤城山麓の「俵萠子美術館」館長。96年乳がんで右乳房切除。01年11月、「1・2の3で温泉に入る会」発足。



 大橋さんはお若いですけど、いくつのときに発病されたのですか?

大橋 25で大学院の修士課程のときに、骨髄異形成症候群(MDS)という病気を発症しました。

 何だか難しい病名ですね。

大橋 急性骨髄性白血病は骨髄の中の白血球に分かれていく細胞ががん化するんですけれど、僕の病気はその前の段階でがん化するので、赤血球も血小板にも異常があって、それをMDSというんです。

 自覚症状はどのように現れました?

大橋 ちょっと疲れやすいなとは思っていたんですが、ある雪の日に家の前で転んだんですね。そのときに首を痛めて、むち打ちだろうと思ってたら何週間たっても治らない。それでたまたま、研究室に整形外科のお医者さんが来たので相談したら、病院に行けと言われて、近所の整形外科に行きました。血液検査をしたら白血球も少ないし赤血球も血小板も全部少ない。白血病はふつう白血球数が上がるのに、僕のは下がっていく。これは血液データがおかしいということになって、最終的に東大病院の血液内科に行きました。その日のうちに告知され入院。

 その頃告知は一般的に行われていたのですか?

大橋 そうでもなかったと思うんですよ。

 あなたが東大の学生だったからでしょうか。

大橋 多分東大病院のスタンスだったんだと思います。長期の入院になるので告知したほうがいいだろうと判断したんじゃないでしょうか。結果的には僕は良かったと思っています。でもあまりに急でしたので家の中はひどい状態でした。まさかそのまま半年も家に帰れなくなるとは思いもしませんでしたし。

 やりかけの研究とか勉強とかもそのままですか?

大橋 研究も勉強も、机の上も出ていくときのままでした(笑)

病院の治療に対して“NO”

 あなたのプロフィールを読ませて頂いて、気になったんですけど、“骨髄液をとり出す機械”の研究をされていますね。これは、病気になられてから始められたんですか?

大橋 病気が治ってからです。入院中に若い先生たちが『骨髄を取るのに時間をとられて大変だね』って話をしているのを聞いたのがきっかけです。

 それまではその方面のことには興味がなかったんですか?

大橋 そうですね。入院した当時は、障害者と高齢者の介助を支援するような機械を開発しようと思っていました。もともと世田谷区在住の障害者の方の介助をするサークルに入っていたんですが、皆、腰を悪くしてしまうので何とか補助する機械を作りたいと思っていたんです。

 そして突然病気になって入院し、偶然にも医師たちの不満を耳にしたわけですね。

大橋 そうです。需要が少なかったので骨髄をとる方法なんて考える人もいなかったんです。だから治療が一段落したらやりたいと思っていました。

 その頃には工学部の修士過程卒業後に医学部に入ろうと考えていたんですか?

大橋 そうですね。ただドナーを探していた時期で、体力的にも自信がなく、そんな状態で沢山のお金をつぎ込んで医者になるという気分にはなれなかったですね。

 結局ドナーは見つからなかったんですね?

大橋 そうなんです。適合者は3人見つかったのですが、最終的には全員同意してもらえませんでした。ドナーが見つからないまま、もう5、6年になりますが、不思議ですね。僕の病気は移植をしないと治らないと言われていましたし、移植せずに今元気にしていられるのは、きわめて稀なケースだと思います。

 何が良かったんでしょう?

大橋 僕の病気は比較的お年を召した方がかかるんで、その中で僕はとっても若いほうだったんです。同じ病気のくくりにはなっているんですが、微妙になにか違ったのかもしれません。

僕はドナーが見つかったとき、すぐ移植できるように維持療法をやっていたんです。2カ月入院して抗がん剤治療を受けて、1カ月は自宅に戻るというパターンなんですが、ヘトヘトに疲れて勉強も手につかなくなるんです。で、こんな生活続けていていいんだろうか? と思っていたところにある先生から助言を受けて、その維持療法を思い切って止めたんです。そこから大きく変わりました。病院にも話しをしてきちんとした対応を取って頂きました。

 病院の治療に対して“NO”と言うのはなかなか大変なことです。勇気ある決断でしたね。

入院中の患者への配慮

 ももの木はどういう経緯で生まれたのですか?

大橋 骨髄移植などの医療技術の発達によって、今まで“不治の病”だった白血病や悪性リンパ腫などは“治る病”へ変わってきています。でも治るといっても、抗がん剤治療の後遺症や社会復帰など大きな課題が残されています。同じ疾患を抱えた者同士が気楽に悩みや思いを語り合ったり情報交換の場を作りたいとずっと思ってたんです。そんなとき、血液内科医の田中佑次先生(現ももの木理事長)の提案があって、東大医学部付属病院や駒込病院を退院した患者たちで立ち上げました。

 どのような活動をされていますか?

大橋 最初は“患者や元患者が気楽に集まっていろいろ話そう”という患者交流会がメインでした。今では“殺風景な病院の廊下に絵を飾ろう”“長期入院している患者たちのために演奏会や大道芸などの院内イベントをやろう”“小中学校や看護学校で血液疾患についてや生命の大切さについて講演をしよう”など外部へ向けた活動も行っています。

 病院に絵を飾るというのはいいアイディアね。

大橋 いえ、きっと皆さん思っていることだと思います。入院しているとき、あまりにも病院の中が殺風景で無味乾燥だったんです。無念にもそこを人生最後の場とするケースがとても多いわけですが、無機的な医療機械に囲まれて息を引き取るというのは寂しく非人間的な気がします。特に入院していたのは旧病棟だったのでなおさらでした。

 新しい病棟はどうですか?

大橋 新しいからキレイなのは当然ですが、患者の気持ちや患者間のコミュニケーションを想定した作りにはなっていないと思います。個室が増えたのは良いことだと思いますが反面、患者同士のつながりは作りにくくなったんじゃないかと思います。

 私は高速道路を運転中に一過性の脳梗塞を起こして4カ月半入院したんです。仕事柄いろいろな人が見舞いにくるので仕方なく個室に入ったんですが、最終的に1日3万円になったものの、事故直後は1日6万円の部屋でした。話し相手のいない寂しさとお金のことは大問題でしたね。

大橋 大変ですよ、1日3万円でも。

 あなたがおっしゃるように長い入院生活に耐える患者への配慮がない病院が大半だという気がしますね。その点、聖路加病院は違いますね。廊下はまるでギャラリーですよ。見ていてとても気持ちがいい。せめて普通の料金でああいう病院に入れるようになればいいな、って思います。高級であるとかそういうことではなく、人間的な温かみや配慮の感じられる病院という意味でね。
絵にしてもただ飾るのではなく壁紙と合わせるとか、廊下の絨毯にしても思いやりや風情が感じられるものにするとか。設計の段階で考慮してほしいと思いますね。

大橋 そうなんです。心があるかどうか、思いやりのセンスがあるかどうかなんです。建てる前の段階からいろいろな人の意見を取り入れていれば、後になって慌ててやるよりもずっと安価にできたはずです。

 例えば絵を掛けなくても、外のケヤキの木が見える窓があるとか、湯呑み1つでも温かい感じの物を使えば飲み心地も違ってきます。そういうことなんです。患者が五感をもった人間であることを、病院の設計者、オーナーは忘れているんだと思いますね。“命が助かればそれでいいんだ”の発想はそろそろ改める必要があると思います。


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