NPO法人生と死を考える会 副理事長/杉本脩子
悲嘆の先に見えてくるもの

撮影:板橋雄一
発行:2005年4月
更新:2019年7月

  

杉本脩子

すぎもと なおこ
東京都生まれ。スイス・ジュネーブ音楽院卒業。1984年に夫を肝臓がんで亡くしたことをきっかけに生と死を考える会の活動に携わる。2004年に自身も胃がんに罹患。現在同会副理事長。

俵  萠子

たわら もえこ
大阪外国語大学卒。サンケイ新聞記者を経て1965年より評論家・エッセイストとして活躍。95年より群馬県赤城山麓の「俵萠子美術館」館長。96年乳がんで右乳房切除。01年11月、「1・2の3で温泉に入る会」発足。



正面から死と向き合う

 設立してから20年ぐらいになりますか? とても歴史が古い会でいらっしゃいますが、どういう経緯で立ち上げられたんですか。

杉本 1982年に上智大学で「身近な人の死を経験する時」をテーマとした“生と死を考えるセミナー”が開かれて、多くの方が参加されました。当時は死について語り合える場はなかなかないということで、セミナー終了後もこれっきりにしたくないと、有志で集まりを続けたのがきっかけです。

 特定の病気の患者会というのではなく“死”という誰にでも訪れるものにどう向き合うか、をテーマにされているわけですが、どのような活動をなさっているのですか?

杉本 大きく分けると2つの柱があります。1つは大切な人を失くされた方々へのサポート活動。もう1つがいろいろな角度から“生きること、死ぬこと“について学んでいきましょうという趣旨で講演会や講座、勉強会などを開いています。また、会報を2カ月に1回発行しています。

 会員さんはどのくらいですか? やはり女性のほうが多いのかしら?

杉本 700人くらいですね。最初は女性が大半を占めていましたが、最近は男性もかなり増えました。昭和天皇が亡くなられた頃から男性の参加が増えたような気がします。あの頃テレビなどで、天皇の御病気の経緯が伝えられましたが、死を目前にしているに違いない天皇の病状を聞いて、多くの人が自分のことにおきかえて“死”について考えたのではないでしょうか。

 あなた方の会が産声をあげた頃、私は市川房枝さんたちと一緒にフェミニズムの運動を日本で始めたのですが、それは女性運動であると同時に男性解放の運動でもあったんです。男は男らしく、男は泣いてはいけないとか、男子厨房に入るべからずとか言われていましたが『そんなことはない』と訴えました。

運動の成果が浸透し始めた頃、昭和天皇が亡くなられました。その時期にE・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』や柳田邦男さんの『がん病棟』が登場しました。今までタブー視されていた“正面から死と向き合う”分野にメスが入ったんです。ですから天皇御崩御だけではなく、さまざまな動きや要素が重なったこともあると思います。

杉本 それらの一連の動きが男性に大きな意識改革をさせたのかも知れませんね。「死は敗北」というとらえ方が強い中で、沈黙を守ってきた男の人たちも、大切な人を亡くしたり、自分が病気になったりしたときに、感情の吐露は人間として当然の行為だと認識するようになったということでしょうか。

“死”はイメージでしかない

 “死”というものからいつまでも目を背けていてはいけない、という風潮は確かに育ち始めました。でもだからと言って今、きちんと死に向き合う姿勢ができているかと言えばそんなことはないと思います。

最近、私たちの会の会報に“あなたに出会えてよかった”という訃報を扱うページを見開きで掲載したんです。このページの掲載には非常に悩みました。読んだ会員が意気消沈してしまうだろうか、落ち込んでしまうだろうかと。

杉本 むずかしい問題ですよね。

 でも縁あって出会った人が亡くなったとき、皆に知らせて皆で懐かしみながら冥福を祈りたいと思ったんです。そして“死”というものをごまかしてはいけない、と。この決断には勇気がいりましたね。

杉本 実は私もビックリしました。あれほど訃報を堂々と掲載した患者会の会報は初めて拝見しましたから。辛いことであっても事実から逃げないという姿勢に大変心を打たれました。

 がんの患者会としては普通は目を背けていたい、隠しておきたいことです。でもそれでは、亡くなっていくご本人にとってもまわりにいる人にとっても、かえって辛くなると思うんです。ただ忘れ去られるだけですから。

また、私自身健康なときには思いもよりませんでしたが、がんになると日常の生活の中で “死”を見つめ“生”を考えるようになりました。生と死に対する姿勢をどう患者会で出していくか、悩んだ末にようやく清水の舞台から飛び下りる覚悟でつくったページなんです。

杉本 私は“死”をどう受けとめるかは“死生観”というか “人生観”というか、それぞれの価値観ですから、どこかにこれが正解なんていうものはないと思っています。現実に向き合い日々の営みを続けながら、それぞれの人が育むものではないでしょうか。

 むしろ死に対してこういうイメージを持っている、あるいは私はこう生きている、ということでいいんじゃないかと思います。かしこまって考える必要なんてないって。

杉本 そうですね。今おっしゃったことはとても大切なことですよね。“生”は考えられるけれど、もしかすると“死”は思考の範囲には入りきらない、考えるものではないのではないかと思うことがあります。

以前、養老孟司先生が講演をして下さったときに“自分という1人称の死はない。死んでしまったらもう自分はないのだから”とおっしゃいましたが、その通りですよね。

 “死”はイメージでしかない。私のイメージは、雲に向かって伸びて行くガラスの階段があって、ところどころに踊り場がある。歌いながら休みながら真ん中辺りまで行くと、父や母が迎えに来てくれている。好きな男性が手を差しのべてくれているとか。そういうイメージって楽しくなります。昔見た映画や、私が描いている絵などが全部集大成されて、こんなイメージっていう死があるんです、絵の中にはっきりと。私はそのイメージに向かって、むしろ楽しみながら死を考えているんです。

杉本 私たちの会の1つの柱である“いろいろな角度から生と死について学ぶ”活動として講演会が行われています。先ほどの養老先生やがん病棟を書かれた柳田邦男先生、聖ヨハネ会桜町病院でホスピスケアに関わっておられる山崎章郎先生など、長い間人の死と向き合ってこられた方々がそれぞれの立場でお話しくださるので、新しく発見することが多いです。

 それは会員でなければ聞くことはできないんですか?

杉本 いいえ、そんなことはありません。自由に参加できるので、興味のある方はぜひ1度参加して欲しいですね。

夫の死から立ち直るきっかけ

 あなたがご主人を亡くされたお話は会報で読ませていただきました。ご主人はおいくつだったんですか。

杉本 働き盛りの45歳でした。肝臓がんで亡くなりましたが、若かったので進行が早く、がんとわかったときには手の施しようがありませんでした。発見から7週間で亡くなりました。

 それはあまりに早いですね。本当に考える暇もなかったでしょう。

杉本 それでも、短いながらその7週間は凝縮された濃密な時間を過ごせたとも思います。あの時間があったからこそ、残された私たちは生き続けられたと思う大切なときでした。病名こそ告げなかったものの、病状について本人は自覚していたようで、家に帰るたびに身辺整理をしていました。

最後は死期を悟っていたのか、『もう時間がないから、どうしてももう1度家に帰りたい』と医師が止めるのを振り切って自宅に戻り、数日を過ごしました。衰弱し、腹水がたまって苦しかったと思いますが、「ウチはいいなあ」と何度も繰り返し言い、子供たちも一緒に家族全員で食卓を囲みました。そして何故か最後にブラームスの4番のシンフォニーを聞きたいって……。それが最後に聞いた音楽になりました。お手洗いに自分で行っていたんですけれど、戻って来て倒れこむように「精も根も尽き果てた……」と言ったときに、「もう、これ以上頑張らなくっても良い」って、ほんとうにそう思いました。

 私も父が肺炎で苦しみながら亡くなったときには『お父さん、楽になれて良かったね。よく頑張ったね』って言うしかなかった。私が苦しいときに助けてくれたのが父なんです。だから父が亡くなったときは、人生でこんなに悲しいことがあるのか、と思いました。

毎日泣いてばかりいたんですけれども、ある日新幹線に乗るのに東京駅を歩いていたら、突然父が私の心の中に住みはじめた気がしたんです。だから『お父さん、これから一緒に仕事に行こう』って声をかけたんですよ。そうしたら何か気持ちが軽くなって『な~んだ、お父さんは私の中にいるんだ』と、妙に安心しました。救われたんです。これは宗教でも何でもないです。あなたにも今に至るきっかけとなった何かがありますか。

杉本 夫が亡くなる数時間前に『大丈夫だ、大丈夫だ』って言うんですね。それが最後の言葉になりました。それまで“死”というものは漠然と恐ろしい世界だと思っていました。でも恐ろしい世界ではない。なにか大丈夫なものを夫は確かに見たのではないかと、そしてそのことを私に伝えたかったのだ、そんなふうに思うんです。

 私もそんな気がします。私の父も『だいぶ良くなった、だいぶ良くなった』って言いながら死んでいきました。だからあなたと同じようにいつも考えていました。何が良くなったんだろう、って。私たちを安心させようと言った言葉なのか、それとも死が訪れるまえに苦しさから解放されての言葉なのか、それは今でも分からないんですけれども。

杉本 夫が亡くなって最初は現実感なんて全然なかったし、なにか宙に浮いているみたいで、悲しいなんていう感情が起きたのは多分1カ月とか1カ月半後とか、かなり時間が経ってのことでした。長期出張ではないんだ、本当に戻っては来ないんだって実感したときは、私は時計は逆には回らないということがわかっていなかったんだと思い知らされました。

そんなときにたまたま娘の学校の先生に勧められて行ったのがこの会の分かち合いの会でした。当時はそういう所に参加する意味も何もわからずに行きました。


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