鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
文筆業・加納明弘さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2010年12月
更新:2019年7月

  

元東大全共闘の闘士が肺がんに罹って覚悟したこと
がんをきっかけに、もう1度、父子の絆を結びなおした

加納明弘さん

かのう あきひろ
1946年岐阜県生まれ。1965年、東京大学教養学部文科3類入学後、学生運動に没頭し、東大全共闘の活動家となる。安田講堂陥落後の1969年6月に同大学中退。その後、週刊誌記者などを経て文筆業に従事し今日に至る。2008年、肺がんに罹患し8月に手術。右肺上葉部を切除。がんは直径6.8センチあったが浸潤・転移はなかった。手術前の同年7月息子の建太氏と1泊2日の対談を行い、その記録が『お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ』(ポット出版)として最近出版された

鎌田實さん

かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

「脳に転移しているからもう手術はできません」

鎌田 最初に医師から肺がんと告げられたとき、どういう言い方をされましたか。

加納 私の従兄弟が慈恵医大病院の医師なんですが、私は糖尿病の経過観察で、2カ月に1回、慈恵医大に通院していたんです。あるとき、糖尿病の血液検査でγ-GTPの数値が突然悪くなり、担当の先生から、「これはおかしいよ。何かありそうだから、精密検査をしなさい」と言われました。たまたま従兄弟が放射線科の医師だったものですから、彼にレントゲン検査をしてもらったところ、「あきちゃん、ちょっと話がある。これは覚悟したほうがいいよ」、そういう言われ方をしました。

鎌田 胸のレントゲン写真を撮ったわけですね。

加納 8センチぐらいの影が写っていました。「99パーセント肺がんだと思う。それもかなり深刻だ」と言われました。たまたま女房と一緒に病院に来ていたので、「そういうことなら女房と一緒に話を聞きたい」と言うと、従兄弟は「奥さんに聞かせたら泣いちゃって話にならないから、君だけに話す」と言って、私だけが聞いたわけです。

鎌田 従兄弟は加納さんのことをよく知っているから、ストレートに話しても大丈夫だと思って、最初からそこまで話したんですね。で、大丈夫だった?

加納 いやぁー(笑)。聞けば、大体の状況は頭の中ではわかりますよね。余命1年か2年、そんなもんだろうなぁ、と覚悟しましたから。

鎌田 最初は、肺に8センチの腫瘍があるという説明だけだったんですね。

加納 それで精密検査をしましょうと。そのとき従兄弟から、「最近の大学病院は内視鏡による縮小手術が主体になっているが、あきちゃんの場合は拡大手術でないと無理だ」と言われ、癌研有明病院を紹介されました。

鎌田 癌研有明で精密検査をした。その結果は?

加納 PET(ポジトロン断層法)とか骨シンチグラフィで調べてもらったところ、「どうも頭蓋骨に転移がある」と言われました。たしかに頭蓋骨の部分がピカピカ光っていました。MRI(核磁気共鳴画像法)で撮っても、炎症のようなものが写っており、外科の先生のところへ行ったら、「これは転移です。もう手術はできません」と言われました。そのときがいちばんショックでした。

「愛されているな」と思い、感動

鎌田 そのときはどんな状態でしたか。

加納 足が地に着かないと言いますか、妙なことばかり考えました。道を歩いていて、自分より年長の人に会うと、「あぁ、この人より自分のほうが早く死ぬんだ」と思ったり、コップやグラスを見て、「あぁ、これが壊れるより自分のほうが先に壊れるんだ」と思ったり(笑)。

鎌田 その日は癌研に1人で行ったんですね。

加納 そうです。病院を出てすぐ女房に、「帰ったら詳しく話すけど……」と、電話をしました。帰って、女房に精密検査の結果を話すと、泣いて泣いて……、変な話ですが、愛されているなと思いました(笑)。

鎌田 (同席している夫人に)結果を知らされて、どんな気持ちでした?

夫人 えっ、このまま人生が終わってしまうのか、と思いました。

加納 正確に言いますと、私の人生が終わるだけでなく、彼女の人生も終わると思った、ということです。そう思ってくれたことに、リアルに感動しました。

鎌田 奥さん、慈恵医大で肺がんと言われた日と、癌研で精密検査をし、脳に転移があると言われた日とでは、加納さんの様子は違っていた?

夫人 慈恵で肺がんと言われた日は、それほど気配はおかしくなかったのですが、癌研の日は明らかに変でしたね。私たち夫婦は結婚以来、別々の部屋で寝ているのですが、その日はベッドを私の部屋に移すと言いました。これはもうダメなんだと思いましたね。

加納 それは忘れてた。

夫人 結局、手術ができることになりベッドは移さなかったのですが、それを言われたときにはドキッとし、覚悟を決めたんだと思いました。

鎌田 加納さんと対談したいと思ったのは、これから団塊世代が歳をとって、がんになる人が多くなってきます。加納さんのように団塊世代の中でも苛烈な生き方をしてきた人が、がんをどう受け止め、どう生きようとするのか、それを読者に伝えたかったからです。加納さんほどの人でも、がんになると大変な思いをするんですね。

加納 いや、脳に転移していると言われた瞬間は、やはり動揺しましたね。

鎌田 もうダメかとよろよろした。

加納 強いパンチをくらいました。ノックアウトされたわけではありませんが、ダウンに近い感じでした。

鎌田 それで、そのあとはどうなったんですか。

加納 脳の炎症部分は右耳の上、こめかみ部分でした。そこは昔、機動隊に警棒でひっぱたかれた部分なんです(笑)。そのことが気になっていたので、従兄弟に話したところ、脳の炎症部分の精密な画像をもう1度撮るから、癌研の画像診断部の先生によく診てもらったほうがいいということになり、診てもらいました。その結果、脳の炎症部分は転移ではないと診断され、手術を行うことになったわけです。そこで精神的に少し落ち着きました。

がんという死に方も悪くはないと思った

鎌田 今年の8月に息子さんとの共著で、『お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ』という本を出されましたね。この本のもとになった息子さんとの対論は、いつ収録したんですか。

加納 2年前の7月です。手術をすることが確定した10日後でした。箱根の温泉に1泊し、2日がかりで収録しました。息子から、死ぬ前にお前の学生時代の話をしとけと言われたことで、気分的に救われましたね。

鎌田 救われた! 自分の学生時代の話をしているうちに気持ちが安らいだ。

加納 そうですね。いつの時代も、父親と息子の関係はそう上手くいくものではありません。私の家もそうでした。その息子が「あんたにあるのは経験と知識だけなんだから、それを俺に残せ」と言ってくれた。

鎌田 息子さんが「あとがき」で、「私は反抗期の中学時代に父親を殴り倒し、それ以来ほとんど家族とは深くかかわらなかった」と書いていますよね。つまり、がんを通して、もう1度、家族の絆を結びなおした。

加納 まあ、今になって思えば、そういうことなんでしょうね。

鎌田 脳に転移はないことがわかり、手術をして成功した。リンパ節への転移もなかった。

加納 CT画像を見ると、リンパ節が大きく膨らんでいましたが、炎症だけだったようです。腫瘍の大きさは6.8センチ、ステージとしては1Bでした。

鎌田 正式な病名は?

加納 扁平上皮がんです。右肺上葉部を摘出手術して2年ちょっとになりますが、今のところ定期検査では異常ありません。

鎌田 がんになって、人生とか死について、あらためて考えたことはありますか。

加納 がんという死に方も悪くないなと思いましたね。残された時間の中で何かができる、ということにとても感謝しました。かりに再発して余命1年とか、1年半と言われたとしても、それだけの時間があれば、ある程度の仕事ができると思えることが、非常に救いになっています。脳や心臓の病気でパタンと死んだり、まったく仕事ができない状況になるのとは違いますから。かりにこんど再発しても、そんなに動揺しないと思います。

鎌田 奥さん、加納さんはこの2年間で変わりましたか。

夫人 前向きに生きるようになったような気がします。そして、以前より落ち着き、生き生きしてると思います(笑)。

鎌田 それは素晴らしい。

加納 その点で忘れていけないことは、癌研有明の先生方の献身的な治療です。チーム医療と言うのでしょうか、朝早くから夜遅くまで皆さんで大変な激務をこなしておられました。その献身的な働きぶりには、本当に頭が下がりました。心から感謝しています。

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