ドイツがん患者REPORT 90 ドイツレポートを振りかえって 前編

文・写真提供●小西雄三
発行:2022年4月
更新:2022年4月

  

懲りずに夢を見ながら」ロックギタリストを夢みてドイツに渡った青年が生活に追われるうち大腸がんに‥

2014年12月号から始まった連載は、最初は単発のレポートからでした。2013年に応募した闘病記が入選したのがきっかけで、編集者にミュンヘン大学病院で行われるがんイベントについて話したところ、「取材してみませんか?」とお誘いを受け、喜んで引き受けた後、連載のお話をもらいました。

がん闘病で仕事ができなくっていたので、とてもうれしかったことを覚えています。まさか、7年半も続くとは思ってもいませんでしたが、レポートの場を与えてくれたがんサポートに感謝しています。

当時は月刊誌で、毎月航空便で送られてくる掲載誌に目を通すのも楽しみでした。2017年7月からWebになり、文字数の制限が緩くなりいろいろ書き込むことができるようになりましたが、単に日本とドイツの医療事情の違いだけでなくて、問題点なども伝えて参考になればと願って書いていました。

がん闘病記に応募する

2007年、母が末期がんで亡くなりました。僕は帰国して3週間ホスピスで母に付き添い、最期に濃い時間を過ごし、看取ることができました。

その翌年2008年11月、アメーバ性赤痢で救急入院したとき、直腸がん肝転移が見つかりました。それが、1年以上に及ぶ僕の最初の闘病の始まりでした。

そのとき「余命2年」と言われましたが、術前化学放射線治療後に直腸切除手術、そして肝転移への術前化学療法後に肝部分切除術がうまくいき、一度目の完治となりました。

母を看取るとき、痛みや苦しみをほぼ感じないくらい緩和治療が進んでいることを知り(当時はそう思いました)、痛みへの恐怖はあっても死への恐怖に鈍い僕は、気楽に治療を受けていました。それなりに、悲しくて情けなく悔しいこと、つらいこと、腹の立つことなど、いろいろありましたが、「治ればきっとバラ色の人生が始まる」と、何の根拠もなく信じていました。幸福に感じることも多かったですし。

2011年3月、肝臓に再発しました。医師から告げられたその2日後、東日本大震災の惨状をテレビにかじりついて見続けているうちに、今度も大丈夫「僕は後回しになるだろう」とまたもや根拠のない確信を持ってしまいました。そして、その通り化学療法とラジオ波焼灼術で肝臓から腫瘍は消え、半年間の治療を終えました。

2012年夏、定期検診のCTで、腹膜に腫瘍が見つかりました。肝臓に続き、2度目の再発です。今度は直に切除して、その後化学療法を長期間行うことに。

同じ頃、父が背骨の複雑骨折で入院。高齢でなかなか退院できない中、新たに病気が見つかり、長期入院中の2013年2月、姉から連絡があり突然の父の死を知りました。

闘病記を書くきっかけ

父の死を聞いても、僕は葬式に出ることもできませんでした。当時も今も僕は排便障害に悩まされ、それを緩和する薬としてオピオイドを服用しています。鎮痛剤としてではなく、オピオイドの副作用である腸の動きを鈍くさせる効能での使用です。少しでも人並みの行動をする時間が欲しければ、この薬が僕には必須。しかし、これは麻薬なので日本に入国する際には許可が必要で、手続きに手間と時間がかかるのです。それでは間に合いません。

若いころ、いや、がんになる前の僕なら何も考えず日本に飛んでいたと思います。しかし、その頃の僕は、少しでも家族に迷惑がかからないよう感情を抑えてすべてを我慢する、以前と正反対な性分になっていました。「迷惑がかかっても、いつかお返しするから」と思うことがもうできなくなっていました。

やっと4月の終わりに帰国し、父の墓前に立つことができました。もう一度帰国できただけでも満足で、父の思い出の品をいくつか持って帰れるのは、幸運でした。

しかし、両親がいなくなった実家は、ドイツに行ってから建替えていることもあり、もう自分の居場所とは感じませんでした。

友人たちと会うこともなく、ほとんど3週間家に閉じこもって過ごしているとき、姉が暇つぶしにと持ってきてくれたのが、がんサポート誌でした。ドイツに帰って読んでいると、闘病記の募集を見つけました。

その号で、編集長が大腸がんで亡くなった追悼記事を読みました。それを読んだとき、「絶対に応募しなくてはいけない」と思い、すぐに妹に連絡して原稿用紙を送ってもらいました。理由は未だにわかりませんが。

僕のがん治療、その間に感じた家族や周りへの誰にも言えない自分の気持ちを闘病記につづりました。このとき渡独して25年以上、その間に日本語を話すこともほとんどなく、本棚にある本が僕の日本語のすべてでした。そういう状況なのに、なぜか、応募すれば入選できると思ったのです。そして、この賞金で僕はPCを買わなくてはいけない、とも。

佳作に入賞して、その賞金に少しお金を足しPCを購入しました。これで、僕の世界に新しいコミュニケーション・ツールが加わりし、その後、生活が大きく変わりました。と言っても、見かけは全く一緒でしたが。

アコースティックバンドを開始する

帰国後、友人のフランツィーから連絡を受けました。まだがんになる前に知り合ったのですが、彼女は舞台俳優でありシンガーですが、それだけでは食べてはいけず、僕の行きつけのパブのウエイトレスをやっていました。

フランツィーは僕ががんになったときに心配して、いろいろと助けてくれました。そのことは今でも感謝していて、そのうちに少しでもお返しができたらと思っていました。

その頃の僕は、アルコール依存症のように毎日大酒を飲んでいました。長時間労働による疲労は体を蝕み、それ以上に精神を蝕んでいて、それを麻痺させるためにひたすら飲んでいました。自分の将来に何の希望も見出せなくて、ただ家族のためという義務感で働き、燃費の悪い車のようにアルコールを消費していました。

ところが、あれほど命を削った職場は、社長が会社を閉めました。治療中の僕のために登記上は残してくれましたが……。

僕は高校の頃からエレキギターを始めました。持った瞬間にこれだ! と感じ、40年以上たった今も、飽きることはありません。ところが、ドイツに来てから20年以上やっていたパーティバンドも、がん治療のため僕がやめて自然消滅してしまいました。

何もなくなったとき、アコースティックギターを弾いてみようと、ふと思いつきました。死ぬのが先か、エレキのように弾けるのが先かなどと思いながら……。

すると友人がすぐにギターを用意してくれ、そのおかげで治療中も憂鬱になることもあまりなく、音楽を、ギターを弾けることがうれしくて、時間という難敵と問題なく対峙できました。

残念ながら、抗がん薬の副作用で指先が痺れて、エレキですらもう昔のようにはうまく弾けません。当然アコースティックは、僕のなりたいレベルとは程遠いですが、今は音が出てギターを触っているだけで満足でき、幸せです。

それでも、ひとりは寂しいなと思っているときにフランツィーが一緒にやろうと声をかけてくれました。「リーダーの抜けたフランツィーのアコースティックバンドに入らないか?」と。もちろんOK。このバンドは僕の加入後、なぜかがんとの関わりが深くなりました。

R.Y.Sとの出会いと援助

フランツィーの友人が、2012年ベストセラーになった本について講演することになり、行ってみることにしました。連載のきっかけとなったミュンヘン大学病院でのイベントです。

「ホームドクターで受付けの仕事をしているバーバラの娘ナナは、18歳の若さで骨肉腫になってしまう。がんの進行が早く、日々変化していく自分の容姿。しかし、ナナは生きることを楽しもうと懸命だ。バーバラはアマチュアカメラマンでもあったので、ナナは今の自分を写真に撮ってほしい。しかも、モデルのようにいろんなコスチュームを着てスタジオやロケで雑誌に載るような写真がいいと。ナナの願いをかなえようと家族、友人たちも協力した。多くの写真を残し、彼女は21歳の短い生涯を最期まで笑顔で生きることを楽しんだ」という内容で、『ナナ 死はピンクを着て』というのが本のタイトル。

女性の、とくに若い女性のがん患者が直面する問題や、精神的ケアの話など、医師や現場の介護士、精神カウンセラー等々いろんな講義や経験談をそこで聞くことができました。僕もがん患者、いろいろながん患者を見てきましたが、僕との違いを感じ、認識も変わりました。

ミュンヘン大学病院で行われたがんイベントで『ナナ 死はピンクを着て』の共著者と

バーバラは、本の売り上げを基金に「R.Y.S」という援助団体を立ち上げました。R.Y.Sは Recover your smileの略で、「あなたの笑顔を取り戻す」です。活動は、若い女性がん患者(実際には若い男性も)を精神的にサポートするために、ナナと同様モデルのように着飾り、カメラマンが撮影して写真展などで発表をする。活動にはコストがかかるので、啓蒙 活動や募金のお願いをしています。

僕たちのバンドも演奏依頼があれば可能な限り受けて、R.Y.Sの手伝いをして、多くの若い患者と知り合いました。そしてその多くが、天に旅立って行きました。バーバラは、娘ナナの願いでもあるこの活動がライフワークとなっていて使命感があります。しかし、関わる人たちにとっては別れが多く、しかもその別れの多くは永遠の別れになり、精神的にハードではないんだろうか。そんなことを言いだせば、介護職の人はどうするのということでしょうが、それがつらくて転職するという話も聞きますし……、心配になります。

1年がたち、バンドメンバーのデーヴの娘に、大腸がん肺転移が発覚。闘病の末に若くして亡くなり、彼の悲しみがどれほど深いのか想像ができました。想像はできるものの、悲しいという感情が本当には湧き上がってこない自分の存在にも気づきました。

僕の今の人生がつらいから、全てを諦め許容していく段階で、感情をだんだんと失いつつあるのでは?と、自分の冷静さが心配になってきました。喜怒哀楽を押し殺し無感情でいるのが、多分一番楽な生き方だろうと思っていた自分。しかし、それは僕にとって生きる意味があるのだろうか?

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