腫瘍内科医のひとりごと 167 信号待ち

佐々木常雄 がん・感染症センター都立駒込病院名誉院長
発行:2024年11月
更新:2024年11月

  

ささき つねお 1945年山形県出身。青森県立中央病院、国立がんセンターを経て75年都立駒込病院化学療法科。現在、がん・感染症センター都立駒込病院名誉院長。著書に『がんを生きる』(講談社現代新書)など多数

私は、2009年に『がんを生きる』(講談社現代新書)という書籍を上梓しました。この本での目的のひとつは、がんを告げられ、あるいは短い命を告げられて、「どう乗り越えられるか」ということでした。

本を読んだ患者さんから寄せられた体験

出版直後、旗谷一紀さんという方から、「先生が探しておられる〝宗教なしで死の恐怖を超える術〟の条件にあうような体験をしたように思います」との手紙と共に、ご自身が出版された『体に聞く骨髄移植』(文芸社)が送られてきました。

送られた本の内容は、旗谷さんが悪性リンパ腫を患い、骨髄移植を受ける前の、生死の心の葛藤を綴ったものでした。

ここに一部を抜粋します。

「特定の宗教や信仰を持たない僕は、死の問題をどのように考えていけばいいのか。どのような答えなら納得できるのか」

「ひとつだけ分かったことがありました。

―――死の問題は頭で考えても決着がつかないということです」

「自分の可能性に気づいて、命をかみしめた時、僕は生きることを肯定できるのではないかと思いました」

「僕の人生を振り返るようにして、過ごした場所を順々に巡って人生を再体験することを思いつきました。

―――マンション近くの小川までくると……足もとの落ち葉をひろって……川を眺め続けました。どれくらいそこで過ごしていたのか分かりませんが、気づくと足もとに枯れ葉がたくさん落ちていました。大量の落ち葉を見て、ふとこう思いました。死は特別なことではなく自然なことだ。

―――それから数日が経って、駅前の商店街に買い物にでかけました。横断歩道で信号待ちをしていると、視野の左上から光が射しました。太陽だったと思うのですが、見上げて光が目に入った瞬間に、『子どもだ、人生の可能性とは子どものことだったんだ』と気づきました。そこにはとても深い感動がありました。そして僕の魂が震えた時、初めて『生きたい』と思いました。

―――『これで移植が受けられる』と安心しました」

私たち病院の数人の医師仲間で、この本のとくにこの部分の解釈を議論しました。

このとき、「どうしたら、信号待ちをしているときの光に出会えるのだろうか?」

「どうしたら、このように、光に出会えるだろうか?」

著者の旗谷一紀さんにも問いかけ、手紙でやりとりをしました。

しかし、分かりません。そして、分からないまま、もう10数年。それっきりになりました。

2人の体験の共通点⁉︎

先日、PHP(株式会社PHP研究所)9月号に、「いつか死ぬ」ことを受け入れる、という題で、がん患者と家族の会「たんぽぽの会」会長で、がん電話相談などに取り組む加藤玲子さんが書かれた文章の中にこんな一節がありました。

「いままで私は、がんを5回経験しています。

―――落ち込み続けていましたが、ある日、近所の交差点で信号待ちをしていたときに、突然『私ががんになったのは、まぎれもない事実なんだ』という思いが込み上げ、がんと向き合う気持ちになれたのです。がんを認めるのに、少し時間が必要だったのかも知れません」

とありました。

心底、がんを受け入れる、向き合う、大変なことと思います。ずっと考え続けて心は大変なことだと思うのですが、それが、たまたまだったと思いますが、この2人の体験では、信号待ちのときだったのです。

がんを受け入れ、前向きになれたのは、ほんの、思わぬ時だったのです。

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