がんの放射線治療の歴史
X線とラジウムの発見後すぐにがん治療への応用が始まった

文:諏訪邦夫(帝京大学幡ヶ谷キャンパス)
発行:2010年5月
更新:2019年7月

  

すわ くにお
東京大学医学部卒業。マサチューセッツ総合病院、ハーバード大学などを経て、帝京大学教授。医学博士。専門は麻酔学。著書として、専門書のほか、『パソコンをどう使うか』『ガンで死ぬのも悪くない』など、多数。

この連載で、まだ「がんの放射線治療の歴史」をテーマに扱ったことがないと気づきました。インターネットには古い情報もあって、歴史の勉強も可能です。調査の結果、日本語のサイトだけでは充実した記述が不足していると感じたので英語のサイトも含めて紹介します。

19世紀末、X線発見後すぐ始まった放射線治療

最初に見つけたのは、(財)医用原子力技術研究振興財団(日本語)の「切らずに治す重粒子線がん治療」から「粒子線治療の歴史」の頁です。放射線治療を、上手に要約しています。

次に、カナダのブリティッシュ・コロンビアキャンサーエージェンシー(英語)の「ブリティッシュ・コロンビア州地域の放射線治療の歴史」頁です。カナダのブリティッシュ・コロンビア州地域の放射線治療の詳しい歴史が発表され、さらにジャクソンという方の文章(JacksonBook125.pdf)もこの頁からダウンロードできます。

この他、20世紀技術の百科事典(英語)の「放射線治療」頁などのデータを総合して、放射線治療の歴史を年表スタイルで下記に示します。

1895年 レントゲン博士がエックス(X)線発見。レントゲン博士はX線の発見直後に医学的応用を試みていますが、診断的な使い方で、がん治療を試みたとの記述はありません。しかしX線が皮膚障害を招くことが早期に知られ、がん治療に応用されるきっかけになりました。

1896年 X線による乳がん治療(グルッベ:ドイツ)、同年舌がんと胃がんの治療(デスペーニュ:フランス)。一部の日本語の頁に「胸部がんの治療」とあるのは、英語の’breast cancer(乳がん)’の訳し損ないでしょう。当初は、悪性ではない皮膚疾患(にきび、白癬、湿疹)にも利用され、有効だったと述べられています。

1898年 キューリー夫妻がラジウム(放射線)を発見し、まもなくがん治療に応用されました。

1902年 ラジウムを子宮頸がんに使用した記録があり、同年、上記ブリティッシュ・コロンビア州の歴史も「バンクーバーでX線をがん治療に使用した」と記述しています。

1905年 パリ、ニューヨーク、ロンドンでラジウムによる皮膚がん治療が普及しました。

1913年 クーリッジ管が発明され、X線照射が充実しました。管球を高温にしてX線量を増し、タングステンフィラメント採用で管球の寿命も延びました。

1950年代 核反応炉でコバルト60が開発されて放射線源として利用され、ラジウムより安価に供給されるようになりました。

神奈川県立がんセンター(日本語)の「呼吸器グループ」の頁に、興味深い写真が掲載されています。数人の患者さんが並んで、手を頬や鼻に当てているのですが、これはラジウムを手にもって直接皮膚がんに当てているところだそうです。現代の規準ではとんでもないやり方ですが、使用の初期ではそんなものだったのでしょう。

最初は皮膚発赤が規準にされたX線の放射線量評価

放射線の発見当初は、その障害がまだ知られず、発見者のレントゲン自身が指に火傷を負って治療に苦労したようすを記しています。エジソンがレントゲン線の応用を試みて、弟子のデイリーが放射線障害で亡くなり、このデイリーが世界最初の犠牲者とされています。

放射線治療には、装置の発する量と患者が受ける量を知る必要があるのに、X線では機器の発する線量の評価が困難で、皮膚発赤の出る量を規準に使いました。ラジウムはやや科学的に、’mgm時間’つまり「ラジウムの量×時間」という単位が採用されました。

1928年に、「レントゲン単位’r’」が登場します。X線とγ線(ラジウムの放射線)に適用され、標準状態(0℃、1気圧)の乾燥空気に1静電単位の荷電を招く量と定義しました。

20年以上経過した1953年になってやっと「ラッド」という単位が採用されます。こちらは患者が受け取る量で、1グラムあたり100エルグのエネルギーと定義します。現在は「グレイ」を用いますが、考え方はラッドと同一で単位をSIシステムにあわせただけです。1グレイ=1ジュール/kgで100ラッドとなり、1グレイの100分の1「1センチグレイ」は、1ラッドとなります。こうした点は、「カナダのブリティッシュ・コロンビア州地域の放射線治療の歴史」頁からダウンロードできる、‘JacksonBook125.pdf’に詳細に説明されています。

実用まで時間がかかった局所に効く粒子線治療

X線とγ線はいずれも電磁波ですが、粒子線は文字通り「粒子」の線です。電子より重い粒子(原子核)を総称して「重粒子」と呼び、現在では「陽子線」以外を「重粒子線」と表現します。重粒子線は現時点では炭素線だけです。以下の記述は、(財)医用原子力技術研究振興財団の「粒子線治療の歴史」頁に沿って、年代順に説明します。

1946年 米ハーバード大学のシンクロサイクロトロン(粒子加速装置)の建設向けにウイルソンが論文を発表し、陽子線の特殊な線量分布、体内飛程端末の高い線量密度の活用を提唱し、さらに高エネルギーのビームの利用、多重散乱、生物効果比を考えた線源の利用などを予測しました。電磁波は照射距離に比例する指数関数で吸収され、減衰するのに対し、粒子線は消滅する直前に大きなエネルギーを出す特徴があり、病巣をその位置に持ってくればとくに有効です。

1950年代 大型加速器が開発され、がん治療への応用の研究も始まりました。

1961年 ハーバード大学サイクロトロン研究所と米マサチューセッツ総合病院が共同で開始した陽子線治療が粒子線治療の最初とされます。1946年の提唱から1961年の実用まで15年かかった理由が2つあります。1つは、治療に必要な粒子線を作り出す加速器ができなかったこと、もう1つは体内のがん病巣の形と位置が正確に診断できなかったことです。後者は、1973年にX線CT(コンピューター断層撮影装置)が開発されて以来、病巣の形と位置の診断が急速に進歩して制約が除かれました。

1990年頃まで 治療の場所は、核物理学研究施設に限られました。

1990年 米カリフォルニア州ロマリンダ大学に陽子線治療センターが設立され、最初の専用治療施設となりました。

日本では、1970年代~1980年代のはじめに、放射線医学総合研究所(放医研)と筑波大学陽子線医学利用研究センターが陽子線を用いる臨床研究を開始して以来、いくつかの施設に広がり、一方で1994年に放医研が重粒子線による臨床研究を開始し、2003年に高度先進医療として承認されました。

今月号では、がんの放射線治療の歴史を概観しました。X線の発見とラジウムの発見から、ほとんど時をおかずに治療への応用が始まっている点に興味を感じます。

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