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- 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談
骨髄バンクの活動から生まれた、国境を越えたドラマ「IMAGINE9.11」
他人を思いやってみよう。そうすれば心が豊かになる

とね まりこ
1984年、ポップス歌手としてデビュー。白血病で友人を亡くしたことなどをきっかけに、約20年前、骨髄移植支援のボランティア活動を開始。2002年、市民団体「骨髄バンクボランティアネットワーク」の代表に就任。2005年、夫のH.T.ISSUI氏がはじめて書き上げた物語を元に、舞台劇「IMAGINE9.11」を企画・上演し、話題となる

よしだ としや
1961年北九州市生まれ。84年一橋大学卒業後大手広告会社入社。89年アメリカ国際経営大学院(サンダーバード)でMBA取得。2003年秋に急性骨髄性白血病発病、臍帯血移植を行い、05年6月復職、現在部長。著書に『二人の天使がいのちをくれた』(小学館刊)
自殺を考えた子ども時代が友人の死でフラッシュ・バック

歌手として活躍している刀根麻理子さん
吉田 舞台劇「IMAGINE9.11」が、今年も再演されますね。刀根さんは芸能活動でお忙しいにもかかわらず、市民団体「骨髄バンクボランティアネットワーク」の代表をされ、そのうえ「IMAGINE9.11」の企画・上演も手がけていらっしゃいますが、最初に活動に参加されたきっかけは何だったんですか。
刀根 直接のきっかけは私が20代の頃、高校時代の恩師ご夫妻が、茨城県で骨髄バンクのボランティアの会を立ち上げられたことでした。
先生の奥様は児童文学作家で、白血病の男の子を主人公にした『金色のクジラ』という本を出版されましたが、その出版を機に会を立ち上げ、そこに私が参加させていただいたんです。そうしたら、ボランティアの人たちが生き生きしていて、私もぜひそういう活動をしたいなあ、と思いました。たまたまその半年前に、友人が白血病で亡くなっていたことも、影響したと思います。
でも、時間さえあればどこへでも飛んで行く私の行動が、まわりの人には不思議だったようで、当時のプロダクションの社長さんなど、「1円の得にもならないことに夢中になるなんて、怪しげな宗教にでもハマっているんじゃないか」と、本気で心配していました。
ですから、最初は「こういう活動は内緒にしなくちゃいけないんだ」と思っていました。なのに、活動にのめり込んでいく自分が不思議で、自分の子ども時代を振り返ってみたら、暗~い性格のいじめられっ子だった自分がフラッシュ・バックしてきたんです。
私は人と話ができず、今なら「グレーゾーン」と言われるような子どもでした。いつも手を洗っていないと気がすまなくて、冬はあかぎれで手が真っ赤でした。
命を軽視し死んでしまう子、生きたくても生きられない人
刀根 恥ずかしい話ですが、9歳と13歳のとき、死のうと思ったことがありました。9歳のときは、「凍死しよう。でも、雪山に行くお金がない」(笑)と踏みとどまりましたが、13歳のときは国道の前に立っていました。スピードを上げてびゅんびゅん走る車を目の前にしても、不思議なことに少しも恐くなく、それどころかスーっと惹きこまれるような気持ち良さに思わず足が出ていました。瞬間、「人は皆平等なはずじゃないか! このままでいいはずがない!」という、声ともなんともつかない衝撃に打たれ、我に返ったのです。
少し前の保健の授業で「心について」の作文に、「心の中に鏡を持って、そこに映るもう1人の自分には、嘘をつかず正直でありたい。話せる友達がいなくても、何でも言えるようになりたい」と書いたことを思い出し、もう1人の自分が救ってくれたのだと、今でも思います。
結局、そんな気持ちを乗り越える衝撃的な体験があり、以来、たくさんのことを経験しながら大人になって、「生きていて本当によかった!」と思っていたときに、20代の若さで友人が死んでしまったのです。
生きたくても生きられない人がいる。その一方、かつての私のように命を軽視し、弾みで死んでしまう子どもたちがいる。そういう子どもたちに「命はかけがえがないんだよ」と伝えたい思いと、生きたかった友人が助かったかもしれない骨髄移植のために自分が役立つなら、という思いが重なって、思いがけなく活動にのめり込んでいったのかなと思います。
子どもを自殺の連鎖から救いたいと本を出版
吉田 子どもに語りかける、『いつも心にヤジロベエ』というご著書も出版されていますね。
刀根 はい。今から11~12年前、愛知県西尾市で、中学2年生の男の子がいじめを苦に、長い遺書を残して自殺したんですが、各マスコミが同情的な論調ですごく取り上げたんですね。
いじめられている子どもって、人間関係の底辺に追いやられていて、目立ちようがないんです。そういう子が自殺をきっかけに、マスコミに祭り上げられてしまった。これは絶対に後追い自殺する子が増える、と思いました。それを何とか食い止めたいと思ったんです。
とりあえず朝日新聞読者欄の「声」に投稿し、掲載されました。でも、もっと子どもたちに届く言葉はないかと、冒頭の数ページを書き出したのですが、忙しさにまぎれてしまって。そうしたら、予想どおり子どもの自殺が相次ぎ、見えない手で背中を叩かれるように仕上げたのが、『いつも心にヤジロベエ』でした。
吉田 なるほど。刀根さんがそんなふうに他人のために何かをしようと思い、実際に動けるのは、子ども時代のことがあるからですか。
刀根 どうでしょう。私はもともと、自分から何かしたいという主張を一切しない性格なんですが、人生の中でわずか数回、突き動かされるように何かをしてきたことがあります。そのひとつが、骨髄バンクのボランティアでした。
吉田 それが白血病であり、骨髄バンクだったのは、いわば偶然だったわけですね。
刀根 たしかに、もし先生たちが活動を始めていなかったら、接点はなかったと思います。でも、やりたいと思っていても、どうしていいかわからない人は今もたくさんいます。私もたぶん、そのひとりだったのだろうと思います。
9.11テロのときに起きた実話が、物語となって夫の夢に出てきた

2001年9月11日、双子の世界貿易センタービルに航空機が突っ込み、多数の死傷者を出した「9.11テロ」。このとき、全土に発令された飛行禁止の戒厳令を乗り越え、無菌室で待つ日本人患者のために骨髄液を届けようと、日夜奔走した人たちがいた――2005年に東京で初演され、2006年に全国で上演された感動の舞台劇が、今年再び、東京に戻ってくる。
吉田 今回再演される「IMAGINE9.11」は、アメリカの9.11のテロのときに起きた、感動的な実話をもとにした作品でしたね。
刀根 作者が夢を見まして(笑)。
吉田 そうでした! すごいですよね。作者のH.T.ISSUI(廣瀬浩志)さんは、ご主人でしたね。
刀根 はい、そうです。
民間骨髄バンクの時代を経て、財団として日本の骨髄バンクが誕生するわけですが、ドナー登録がスタートしてからかなりの間、登録しに行ける場所や時間や曜日が限られていて、学生さんや仕事を持つ人たちは、意思はあってもできないという時代がありました。
それに、当時は置いてもらえないことを知りながら、血液センターや献血カーなどに立ち寄って、「骨髄バンクのパンフレットくださーい」なんて、言ってみたりしてました(笑)。
多くの熱きボランティアさんたちに支えられ、認知度を高めてきた骨髄バンクですが、その背景には様々な問題もありました。
そんな幾つかの相談を彼が受けている中で、「じつは9.11テロのとき、こんなことがありまして」と聞かされたのです。ほとんどの人が知らないことでした。なぜ、そういう素晴らしい話を、もっとオープンにしないのかと、H.T.ISSUIが……。
吉田 くどいけど、ご主人ですよね(笑)。
刀根 (笑)はい。彼が夢を見たんです。見えない手に毎日毎日、「助けて」「助けて」と引っ張られ、うなされて目が覚めるような夢でした。
夢の中では、アメリカの骨髄バンクの人たちが会議を開き、「こんな緊急事態の中では無理だ」「いや、でも運ばなければならない。患者が死んでしまう」など、丁々発止とやりあっている。その役を、ロバート・デ・ニーロやショーン・ペンが演じていたらしいです(笑)。
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