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- 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談
人の痛みや苦しみを体感した彼女が、自ら生み出した“LIVE FOR LIFE”
同じ境遇の人たちに勇気と希望のエールを。美奈子はそれをライフワークに選んだ

たかすぎ けいじ
エグゼクティブプロデューサー。2005年11月亡くなった本田美奈子.をデビュー当時から22年間にわたりプロデュース。他に、松本伊代、松崎しげる、杏里、岡田奈々など数々のタレントを育て上げる。現在、株式会社ビ-エムアイ所属の沢木順、伊達晃二他のアーティスト育成にあたる

よしだ としや
1961年北九州市生まれ。84年一橋大学卒業後大手広告会社入社。89年アメリカ国際経営大学院(サンダーバード)でMBA取得。2003年秋に急性骨髄性白血病発病、臍帯血移植を行い、05年6月復職、現在部長。著書に『二人の天使がいのちをくれた』(小学館刊)
今も走っているから、亡くなった気がしない

吉田 2005年11月6日、本田美奈子さんが亡くなりました。彼女の死は闘病中の皆さんはもちろん、日本中が涙した死だったと思います。私も主治医に、「入院病棟の患者さんが元気をなくし、困っている。吉田さん、励ましてあげてください」と言われたり、早すぎる死を悼む声を、いろいろな形で聞きました。
高杉さんは日本の芸能界の重鎮ですが、本田美奈子さんにとっては父親のような方でしたね。彼女亡きあとも非常にお忙しく、悲しみにひたる間もなかったと推察しますが、今日やっとお時間をいただくことができました。
高杉 実は、本田が亡くなったという意識が、今もないんです。毎日、本田のことで打ち合わせをしたり、写真や映像を選んでお渡ししたりしているでしょう。しかも、半年たって、ますます多くのことをやるようになっていますから。
実際、亡くなってから、彼女の素晴らしさ、偉大さを、より多くの人が理解してくれるようになりました。これはうれしいことです。
ぼくらは22年間、同じ目的に向かってずっと一緒に走ってきましたが、今も同じスピードで走っている。本人がいなくなったから止まったかというと、今も走っているんです。
ぎりぎりまでレコーディングしていたCD、『心を込めて…』も、ようやく4月20日に発売になりました。今、ご縁があって、吉田さんと『LIVE FOR LIFE(リブ・フォー・ライフ)』というプロジェクトでご一緒させていただいていますが、もし彼女が元気に退院していたら、『リブ・フォー・ライフ』という言葉のもとに、病気で苦しんでいる人を励ますコンサートなど、いろいろなことをしただろうと思います。
ところが、それが実はできているんです。彼女はいませんが、多くの人に共鳴共感していただいて、運動が全国に広がっている。ですから、どうしても亡くなったという感覚がないんです。
吉田 まさに親の心境ですね。
高杉 本田はいわば長女でした。学校に通うため、3年間わが家に下宿しましたから、うちの子もおねえちゃま、おねえちゃまと慕っていましたし、本田も「ボスは親だよね」とか、「私たちってマラソンの小池監督と高橋尚子さんと似ているね」とか言っていました。私も「われわれも長距離ランナーだからな」とよく言いました。アーティストは夢と希望を与える仕事ですから、先の先まで考えて育てなければなりません。彼女とも、たえずディスカッションをし、写真1枚の細かいことまで、一緒に決めました。
アイドルのきらいなアイドル歌手だった

吉田 高杉さんと彼女の出会いは、いつですか?
高杉 彼女が15歳の夏休みに、友だちと原宿に来たとき、わが社のマネージャーがスカウトしました。実は、その前に『スター誕生!』を受けていて、うちのスタッフも行っていたのに、見逃していたんです。しかも、声を聴いたら、素晴らしい!
吉田 最初は演歌だったとか。
高杉 ははは。『天城越え』とか、コテコテの演歌ばっかり(笑)。ぼくは演歌もきらいではありませんが、演歌のアーティストを育てる自信はありません。ですから、あくまでポップスをやりたいのだけど、それでもいいのと聞いたら、ぜひやりたいと言うので、レッスンを始めることにしました。
ちょうどそのときTBSから電話があって、長崎歌謡祭に出る新人はいない? と聞かれました。彼女もぜひ受けてみたいというので、出したのですが、ここで何とグランプリを獲るんですね。服部克久先生が「高杉さん、すごい子見つけちゃったね」と言ってくれましたし、レコード会社各社もぜひうちにと申し出てくれて、それがきっかけで本田は東芝EMIからデビューしたんです。
吉田 それからヒット曲を連発するわけですが、本田さんはアイドルと呼ばれたくなかったとか。
高杉 アイドルのきらいなアイドル歌手でした(笑)。本人はアーティストと呼ばれたいのですが、かわいいしコマーシャルにも出ているし、どうしてもアイドルに入れられてしまう。それがいやで、わざとへそ出しルックをやったり、雑誌の撮影に行って、「なぜスタジオで水着を着て、横にならなきゃいけないの」と帰って来たり。でも、ぼくはそれでいいと言いました。結局、ぼくらが謝るんですが、彼女の個性を尊重するという考え方でやってきたので。
2000枚の年賀状書きファンを、人を大切にした

吉田 高杉さんの育て方と彼女の個性が、ぴったりだったと。本田さんは、どんなに忙しくとも年賀状書きのための休暇は毎年必ず取っていたそうですね。
高杉 デビュー以来、自筆での年賀状書きを続けていたので、年末に1週間休みを取るんです。その年にお会いしたファンの方たちなどに、だいたい2000枚ほど書きますから、必ず腱鞘炎になるんですよ。末尾には必ず、「心を込めて」と書いて。それが今回のアルバムのタイトルになっています。
本田はコンサートの終わりにも、必ずお客さんの1人ひとりと握手をしました。ただ、ありがとうと言うのではなく、目を見て手を握って、「いかがでしたか」と感想を聞くんです。コンサートの倍以上時間がかかりました。
あるとき、85歳と82歳の老夫婦が、「あなたの素晴らしい歌を聴いて、私たちはこの年でようやく歌の素晴らしさがわかりました。でも、私たちには時間がないので、どうかもっとたくさん歌を出してください」とおっしゃっているのが聞こえました。お2人は本田が亡くなったときも本当に悲しんで、「私たちより先に言ってしまうなんて。でも、向こうに行ったら逢えますね」と、涙ながらにおっしゃってくださいました。
本田はファンを大切にし、人を大切にしました。ですから、葬儀にも今回の追悼展にもたくさんの人が来て、本田を惜しんでくれました。フィルム・コンサートでは、みんなが一緒にコールしてくれました。まるで、そこに本田と一緒に立っているかのように、気持ちをあわせてね。ぼくは感動と勇気をいただきました。終了後も、「あそこには美奈ちゃんがいたねえ」とみんなが言うんですよ。
吉田 本田さんは足の骨を骨折しても、ミュージカル『ミス・サイゴン』に出演し続けたという、有名なエピソードがありますね。
高杉 褒めてばかりで恐縮ですが、すごい努力家で頑張り屋でした。幕が上がって1カ月経った頃でしたが、120トンの滑車が足に落ち、足の骨が砕けたのです。なのに、血の海になりながら、最後まで歌いました。これはだれも真似できないと思います。医者もびっくりしていました。叫び声が聞こえないようぐっと歯を食いしばり、痛さと涙をこらえて歌ったのですが、ちょうど子どもを抱えて泣くシーンだったため、だれも気がつかなかったそうです。
吉田 すさまじい根性ですね。
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