乳がんとの「闘い」の6年間を支えた「生きる意志力」
エッセイスト田原節子が遺したがん患者たちへの遺言

がんサポート編集人:深見輝明
発行:2004年10月
更新:2013年9月

  

8月14日は、今年の歴史的な猛暑の中でも、まれに見る蒸し暑い日だった。その夜、私は東京湾大華火祭の花火を見ていた。贅沢にも、台場にあるホテル日航東京のレストランを貸し切った一室からだった。

しかし、私が見た花火は、パッと絢爛豪華に咲く大輪の花火ではなく、一瞬にして散って闇夜に消え行く物寂しい花火であった。

そこには、いるはずの人物がいなかった。前日にその人の訃報を報らされたばかりだった。

大事にした「がん友」

1999年の手術後、退院を祝って娘達との記念写真。退院を心待ちにしていた家族との談笑のひととき
1999年の手術後、退院を祝って娘達との記念写真。
退院を心待ちにしていた家族との談笑のひととき

私が田原節子さんと出会ったのは、3年前のことだ。当時、私は「がん治療最前線」という雑誌の編集長をしており、ジャーナリストの田原総一朗さんに対談のホスト役をお願いしに行った。すると、田原さんのほうから「ぼくもいいけど、もっとおもしろいやつがいる」と提案されたのが、節子さんだった。

実は、田原さんに近しい友人から「奥さんが乳がん」と聞いて知ってはいた。しかし、当時、節子さんは壮絶な闘病の真っ只中にいて、マスコミの表舞台にはまだ一度も出たことがなかった。おそらく「朝まで生テレビ」「サンデープロジェクト」の名物キャスターの妻ががんとして騒ぎ立てられるのを恐れていたのだと思う。だから田原さんの口から名前が出たときは、正直びっくりした。そして二つ返事で引き受けた。

節子さんとのつきあいはそこから始まった。

かねてから切望していたオリエンタル急行に乗って、シンガポールからバンコクまで、自然の中を行く列車の旅を満喫した
かねてから切望していた
オリエンタル急行に乗って、
シンガポールからバンコクまで、
自然の中を行く列車の旅を満喫した

その頃の節子さんは、自分でも言っているように、まだ「若葉マーク患者」であった。炎症性乳がんであることは知ってはいるが、まだ情報が多くなく、何でも知りたがった。とりわけ炎症性乳がん患者の友だちを見つけたいと希望したので、協力し、何人かご紹介した。

以来、彼女は、「がん友」と称して、がん患者仲間との交流を最も大事に、そして何よりの生きがいにしていった。

節子さんはこう言っている。
「リストを作って、会って食事をしたり、電話もかけあったり、1時間以上も電話で近況報告しあったりする。どうしてる? と声を聞くだけで、お互い生きてるなって確認する。これはとっても役立つんです」

がんとのつきあい方についても常々こう語っていた。
「がんと闘えといっても、そうそう闘えるものではない。では闘わないのかというと、そうでもない。それよりももっと大事なのは、生きる意志、簡単に言えば気力、それが活力の原動力になると思う」

石垣島に次女の綾子さんと。青い海と空、そして八重山椰子を見ることができたのをなによりも喜んでいた
石垣島に次女の綾子さんと。
青い海と空、そして八重山椰子を
見ることができたのをなによりも喜んでいた

奇しくも、病院外で最後の仕事となった7月8日のNHKの「生活ほっとモーニング」への出演でも、そのことに及んでいる。このとき、節子さんの体はがんの転移でかなり衰弱しており、普通ならテレビ出演はとても無理な状態であった。それを節子さんは「アドレナリンが出なくなるようでは生きてる甲斐がない」と言って、ベッドに寝たまま車で病院から現場まで運ばせた。舞台裏で、出番直前にベッドからソファーに移り、しゃきっと腰掛けて、出演に臨んだのである。だから彼女が喋る言葉の一つひとつが見るものにひしひしと伝わってくる。

再発して治療の手がなくなると、医師が敗北感を味わうという敗北医療に対して、節子さんはこう切々と訴えた。
「敗北なんていうと、殴られたようで、希望がなくなっちゃう。がん患者はちょっとでも希望を持てる何かがほしい。どんなふうになっても、どんな細い道でも、何か方法がある、一つは残されている、ということを説明してくれる医者がいてほしい。 がんという病気は、私は気力だと思っている。生きる希望というか、1日でも生きてて、ものを考えられる状態を確保したい。それがなくなるということは夢にも思いたくない」

大きな木が大好きだった節子さん。熊野古道や伊勢神宮は、よく足を運んだお気に入りのスポット
大きな木が大好きだった節子さん。
熊野古道や伊勢神宮は、
よく足を運んだお気に入りのスポット

実は、冒頭の花火観賞を計画・準備したのは、私の友人の編集者、中村信一郎である。彼は、もう半年以上も前から節子さんの闘病記を出版する準備を進めていた。その中で、節子さんの病状、先行きがなかなか厳しくなってきたことを知る。
そうしたとき、節子さんが以前出した著書の中で、「2004年の桜が見たい」と書いてあるのを彼は思い出す。
主治医である聖路加国際病院の中村清吾さんも、そのくだりを読んで、「それまではなんとか生かしてあげたいと意欲を掻き立てられた」と語っている。

「そうだ」友人はハタと手を打った。「節子さんには希望だ、目標を与えることだ。それが生き延びさせる手だ」
友人が節子さんに花火計画を話すと、彼女は喜んだ。しかし、この希望はついにかなわなかった。

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