潰瘍性大腸炎、甲状腺がん、そして解雇。それでも道は開ける
悩んでも答えは出ない まずは、なにか行動を起こす
白石大樹 さん (介護職)
若年層でのがんの罹患には、治療のほかに、就労や恋愛など特有の課題がある。度重なる困難に、何度も挫けそうになりながら、若さと持ち前の明るさで自らの未来を切り開こうと試みる青年がいる。
若い人がかかりやすいがんの1つに、甲状腺がんがある。なかでも「乳頭がん」は50歳以下で発症するケースが多く、早期治療が効果を発揮しやすいがんとしても知られている。
東京都在住の白石大樹さんは、24歳のとき難病の潰瘍性大腸炎を発症。27歳で甲状腺がんの告知を受けた。がんと難病という二重苦を背負った白石さんを、さらなる試練が襲った。がんの告知直後、病気を理由に会社を即日解雇されたのだ。
だが、白石さんは必死にもがきながら、苛酷な運命と格闘してきた。白石さんは、どのような苦境を体験し、それを乗り越えてきたのだろうか。
39度の高熱でダウン 甲状腺に腫瘍が見つかる
大学卒業後、2009年に大型自動車部品メーカーに就職。その後、生産技術部に配属され、社内の生産性を上げるための重要な仕事を任された。毎朝5時に起床し、夜10時過ぎに帰宅する生活。仕事量は膨大で、上司と現場の板挟みになることも多かったが、白石さんはくじけなかった。
「この職場には、互いに協力し合う雰囲気がない。自分が現場の意見を吸い上げて、職場の雰囲気を変えてやるんだ」
そう心に決め、誰もやりたがらない仕事を率先して引き受けた。だが、東日本大震災が発生すると、計画停電の影響で変則勤務が続き、休みがとれなくなった。無理を重ねるうちに、体が悲鳴を上げたのだろう。11年9月、白石さんはついに39度の高熱で倒れてしまう。
かかりつけの病院で検査を受けると、医師の目つきが変わった。甲状腺に腫れが見つかり、超音波検査の結果、なんと4㎝の腫瘍が見つかった。
すぐに細胞診を行ったところ、結果は「クラスⅢa(疑陽性)」。良性か悪性かの判断がつかないため、しばらく経過を観察することになった。
だが、免疫力の低下は、別の方面からも白石さんの体を蝕んでいた。仕事のストレスと食生活の乱れから、持病の潰瘍性大腸炎が悪化。白石さんは、試練のときを迎えることになる。
入社半年後に 潰瘍性大腸炎を発症
潰瘍性大腸炎は自己免疫疾患の1つで、大腸の粘膜を免疫細胞が攻撃し、大腸の粘膜に潰瘍やびらんができる病気だ。その原因は不明で、厚生労働省の特定難病疾患にも指定されている。
白石さんは、入社半年後の09年9月に潰瘍性大腸炎を発症。症状が目に見えて悪化したのは、12年2月のことだ。
ある日の夜、みぞおちに殴られたような激痛が走った。それをきっかけに、血便や腹痛、渋り腹の症状がひどくなり、1日に20~30回もトイレに駆け込むありさまだった。治療でステロイド免疫抑制剤を大量に摂取したため、副作用でニキビが悪化。うつ状態になり、体重も10㎏ほど減った。
「潰瘍性大腸炎が悪化した原因の1つは、ストレスだと思います。1人ではさばききれないほどの仕事を背負い込み、なかなか結果も出ない。自分でも気づかないうちに、プレッシャーで自分を追い込んでいました。ストレスがたまると、肉や油っぽいものが食べたくなる。それも、よくなかったんでしょうね」
この頃から、脂質の摂取をできるだけ減らす食事療法をスタート。症状は少しずつ快方に向かったが、職場環境が改善される気配はない。白石さんの心身は、限界に近づいていた。
「転職を決めたのは、仕事にひと区切りがついたことと、当時つきあっていた彼女と別れたのがきっかけです」
自分を見つめ直したいと、周囲の反対を押し切って退職。「職人の世界を極めよう」と思い、半導体メーカーの精密部品を扱う加工会社に転職したのは、12年9月のことだ。
がんの告知直後に 解雇を通告される
100分の1㎜単位の精密さを競う職人の技は、日本のものづくりを支える要ともいえる。職人気質の社長に「馬鹿」と罵られながらも、これこそが天職だと思い、技術の習得に励んだ。だが、入社3カ月目頃から会社の業績が悪化し、週3日勤務に。ふと、8月に甲状腺の造影MRI検査を受けたとき、「腫瘍の石灰化が気になるから、大学病院で診てもらったほうがいい」と言われたことを思い出した。12月上旬、紹介状を持参して、東京女子医科大学病院の内分泌内科を受診。
「年内に、すっきりしたほうがいいよね」
内科医の言葉に胸騒ぎを感じたが、翌週、気を取り直して1人で検査に行った。ところが、検査前、外科医は白石さんに「悪性の確率が高い」と告げた。事実上のがん告知。頭が真っ白になり、めまいでクラクラした。
検査結果が出た日は、クリスマスの25日。医師によれば、病名は「乳頭がん」。左頸部リンパ節に転移が見られるという。1月に手術を受けることになり、翌々日、会社に行って上司や社長に事情を説明すると、その場でA4の紙を1枚渡された。それは、自分の名前が書かれた退職願だった。
「いくらなんでも用意が早すぎるだろう、と思いました。怒りよりも悲しさを感じて、『会社って冷てえな。簡単に人を切っちゃうんだな』と思いました。まだ試用期間中だったので、ある程度の予想はしていたんですが……。いざ現実になってみると、ショックは大きかったですね」
退職願にサインをすると、社長はそそくさとその場を立ち去った。帰り道、駅のホームで電車を待っていると、様々な思いがこみ上げてきて、涙が止まらなくなった。帰宅後、会社を解雇されたことを親に報告すると、緊張の糸がプッツリ切れたように、白石さんは号泣した。
「こんな体に生んでしまって、ごめんね」
母の言葉が耳を打った。
心配した友人から連絡があったのは、そんな矢先のことだ。「気分転換に、どっか行こうよ」
放心状態で車に乗ったが、行き先を聞いても友人は答えない。東名高速を飛ばして愛知県に入った頃、ようやく、行き先は「癌封じの寺」として知られる西浦不動(無量寺・蒲郡市)だと教えてくれた。
「お守りを買いに行こうよ」
「いいヤツだな、お前」
自分を気遣ってくれる友人の気持ちがうれしくて、思わず目が潤んだ。寺の境内には、藁をもすがる思いで病気平癒を祈る無数の絵馬がかかっている。友人と並んで手を合わせながら、白石さんは不思議と気持ちが鎮まるのを感じていた。
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