最愛の妻を膵がんで亡くし、その哀しみも癒えぬうちに
直腸がんと向き合った夫のポジティブ・マインドとは…
絶対によくなるんだと信じて 気楽に生きていくことが大切
坂田 勝 さん (厨房器具メーカー専務取締役)
直腸がんで直腸全摘手術を受けた坂田さん。その5年前には劇団仲間で同志だった妻を膵がんで亡くしていた。母に続いて父までもがんを宣告され、娘さんはショックのあまりポロポロと涙を流した。しかし彼はこの苦難に敢然と立ち向かっていった。彼が支えにしたものは何だったのか……
「患者の家族」と「がん患者」という両方の立場を経験
がんは日本人の死因の1位であり、2人に1人ががんに罹患するといわれる。夫婦そろってがんを経験するケースも、今では珍しくなくなった。
埼玉県在住の坂田勝さん(69歳)は、奥さんを膵がんで失い、その5年後に自分自身も直腸がんを発症。奇しくも「患者の家族」と「がん患者」という両方の立場を経験することになった。伴侶の死の哀しみも癒えぬうちに、自らも同じ病と向き合うことになった坂田さん。彼が闘病の支えにしたものとは何だったのか。
妻が突然、膵がんを発症
坂田さんはエンジニアとして働いた後、プロの役者を目指して芝居の世界に飛び込んだ。29歳のときに劇団を立ち上げ、台本や演出を担当。結婚を機に劇団活動を休止し、会社勤めのかたわら、タップダンス教室の運営に関わるようになった。
2男1女に恵まれた、平穏な家庭生活。そんな日常が突然、終わりを告げたのは、2006年1月のことだった。体調の不調を訴えた妻の久美子さんが、大学病院を受診したところ、ステージ4の「膵がん」と診断されたのだ。
医師によれば、すでに肝転移があるため、手術は不可能とのこと。抗がん薬治療しか手立てはないという。だが、久美子さんは抗がん薬を拒否し、セカンドオピニオンを希望。藁をもつかむ思いで、国立がん研究センター東病院や千葉県がんセンターを回ったが、どこも診立ては同じだった。
やはり、治療法は抗がん薬しかないのか――途方にくれた坂田さん一家は、無我夢中で他の治療法を調べ始めた。気功治療やフコイダンなどの代替療法を試してみたが、病状が好転する気配はない。後に、高額なNK細胞療法も数回試したが、一向に効き目はなく、腫瘍マーカーは正常値の10倍にも跳ね上がっていた。
「家族で病気のことをじっくり話し合う余裕はなかったですね。とにかく、本人が望む治療法を探すしかない。当時は自分も子供たちも気が張っていて、『ああしよう、こうしよう』と一生懸命でした」
闘病の末、53歳で永眠
夏が過ぎた頃、久美子さんは自宅療養に限界を感じ、ホスピスに入院したいといい出した。埼玉県立がんセンターの緩和ケア病棟に入院の申し込みをしたが、ベッドが空くまでかなり時間がかかるとのこと。そこで、ネットで条件に合う医療機関を探し出し、上尾市内の病院に入院した。
10月中旬になると、久美子さんの衰弱が進み、ついに寝たきりの状態となった。坂田さんは退社後、毎日病院に通い、妻の体をさすりながら心の中で回復を祈り続けた。「亡くなる1カ月ほど前、彼女が一瞬、若い頃のようにきれいに見えたことがあったんです」
思わず、坂田さんは病床の妻に口づけをした。それ以来、去り際に妻の体を抱き、口づけしてから帰るのが日課となった。
12月に入ると最後の苦痛が始まり、久美子さんは「死にたい」と漏らすようになった。モルヒネを投与され、最期は眠るように亡くなった。享年53歳。クリスマスを間近に控えた冬の日のことだった。
「先日、8年ぶりに彼女の遺品を調べてみたら、がん治療に関する資料のスクラップが出てきたんです。存命中はお互い、病気のことを話すのが憚られる雰囲気だったのですが……彼女なりに相当悩んでいたんだなあ、と思いました」
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