ステージ4の舌がんと診断され 自殺まで考えた男を再生させたものとは

仕事に全力投球したことで気持ちが楽になりました

取材・文●吉田燿子
発行:2015年1月
更新:2019年7月

  

竹山 彰 さん (シニア商業施設士)

たけやま あきら 1948年山口県生まれ。71年日本大学農獣医学部卒業後、旭硝子流通経営研究所入所。86年より建築設計の仕事に携わり、93年有限会社オフ・デザイン研究所設立。2006年株式会社レィークを設立し、現在に至る。シニア商業施設士

還暦の年にステージ4の舌がんを発症した竹山さんは「60年も生きていたのだから仕方ないな」と最初は思っていた。しかし、手術前日になって「舌を全摘すれば、よだれが止まらなくなり、味覚もなくなり、しゃべれなくなる」と主治医から聞かされた竹山さんは「生きていても仕方ない」と病室を抜け出し、最上階の食堂の窓から飛び降りようとする――。


仕事に全力投球したほうが、気持ちが楽になるような気がします

事務所でパソコンに囲まれて仕事をする竹山さん

還暦を過ぎても現役で活躍し、働き盛りでがんにかかる人が増えている。都内で設計事務所を経営する竹山彰さん(66歳)は、60歳で進行性の舌がんを発症。舌の半分を切除し、一時は満足に話すこともできなくなった。

だが、必死のリハビリで言葉を取り戻し、今では全国を飛び回りながら、商業建築や再開発のプロジェクトで采配を振るっている。

「がんになったからといって、病気のことばかり考えていても進歩がないし、何も変わらない。病気と向き合いながらも、先々のことを考え、仕事に全力投球したほうが、気持ちが楽になるような気がします」

起業の2年後に舌がんを発症

竹山さんが現在の会社を起こしたのは2006年。商業施設の建築や再開発など、大規模プロジェクトを次々に受注。社員の数も増え、会社の経営は順調だった。

口の中に異常を感じたのは、2年後の08年8月末。折しも、金沢や佐野、熱海などのプロジェクトが佳境に入り、設計監理の仕事で忙殺される日が続いていた。朝5時に家を出て佐野の現場に行き、その足で金沢へ。翌朝8時からの打ち合わせをこなし、翌日は熱海に車を飛ばす――そんな慌ただしい毎日を送るうち、食事をすると口の中がしみるようになった。口内炎の市販薬を塗ってみたが、なかなか治る気配はない。痛みは日増しに激しくなった。

近所の耳鼻科クリニックを受診すると、医師は竹山さんの口をのぞき込み「あっ……」と言って口をつぐんだ。

「がんじゃないですよね」

冗談めかして尋ねると、医師は「うーん」と唸った。

紆余曲折の末、千葉県のがん専門病院で治療を受けることになり、9月に妻と同院を訪問。たまたま診察を担当したベテラン医師は、触診するなりこういった。

「ああ、(がんで)間違いない。さあ、手術いつにしよう」

「ほかの方法じゃダメですか」

「手術が一番いい。命が助かるからね。いつ手術できるかな。10月29日。じゃあ、1週間前入院ね」

ベテラン医師は、こちらに考える暇も与えず、ポンポンと話を進めていく。それがかえって、竹山さんには頼もしく感じられた。画像診断や組織検査が行われ、その日のうちに手術の日程が決まった。結果はⅣ期の舌がんだった。

「しようがないなあ、という気持ちでしたね。ちょうど還暦で、60年も生きてきたのだから、何か病気があっても仕方がないかなあ、と。でも、心の奥底では『間違いであってほしい』と思いました」

だが、心配なのは仕事のことだった。プロジェクトには、当然のことながら納期がある。病気になったからといって、完全に休養するわけにはいかない。そこで、竹山さんは、自分が不在でも仕事が回るようにと、各現場に経験豊富なメンバーを投入。病室にパソコンを持ち込み、CADの図面を見ながら連日10数時間も仕事をした。

「結局、仕事をしなかったのは手術当日だけ。女房も不安な顔を見せまいと思ったのか、僕が仕事をしているのを見ても、何も言いませんでしたね」

CAD=建築設計ソフト

手術前日、絶望して自殺を試みるも……

だが、1週間という入院期間は、覚悟を決めるには短すぎた。主治医チームの間で連絡の行き違いがあったのか、手術前日になっても説明はない。不安とイライラがピークに達し、竹山さんは病室に入ってきた30代の担当医に詰め寄った。

「ろくに説明もしないで手術するんですか。もう、手術しないで帰ります!」

若い担当医は真っ青になった。慌ただしく手術の説明を受けたものの、竹山さんの昂ぶった心は治まらなかった。

「舌を全摘したらどうなるんですか」

「よだれが止まらなくなり、味覚もなくなり、しゃべれなくなります」

担当医は青ざめた顔で、予想される最悪の事態を並べていく。その説明は、竹山さんから生きる希望を容赦なく奪っていった。

「それでは生きていてもしようがない、と思いました。施主にプレゼンテーションするにも、筆談ではどうしようもない。生きててもしようがねぇやという気持ちがどんどん膨らみ、すっかり悲観的になってしまったんです」

その晩は一睡もできず、病室を抜け出して最上階の食堂に行った。窓から身を乗り出し、まさに身を投げようとしたとき、受験生の息子と、子供のころから可愛がって育ててきた甥っ子の泣き顔がフッと浮かんだ。インフォームド・コンセントも行き過ぎれば、患者の生きる希望を奪ってしまう。文字通り絶望の淵に追い詰められた竹山さんを救ったのは、愛する家族の面影だった。

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