心臓ホルモン投与で肺がんの転移・再発を防ぐ 肺がん再発予防の臨床研究・全国10施設で「JANP Study」実施
かもしれません」と語る
似鳥純一さん
心不全の治療薬によってがんの転移が未然に防げるようになるかもしれない。肺がん患者を対象に、実証するための臨床研究が国内10施設で始められた。これまでがんを治療する薬はあっても転移を防ぐ薬はなかっただけに、効果が証明されれば、がん治療は大きく変わっていく可能性がある。
心臓で作られるホルモン
がんはできた場所に留まっている限り、死につながることはほとんどない。死につながる恐れがあり、怖いのは転移することだと言える。そのがんの転移を防ぐ効果があるのではと、今注目を集めているのが、心臓ホルモンの1つである「心房性ナトリウム利尿ペプチド(atrial natriuretic peptide: ANP)」だ。どんなホルモンなのか、臨床研究に参加している東京大学医学部附属病院呼吸器外科助教の似鳥純一さんは、こう説明する。
「心臓で作られて血液中に分泌されるホルモンの1つです。血管を拡張したり、利尿作用などにより血圧を下げて心臓の負担を軽減させる働きがあり、『*ハンプ』という商品名で急性心不全や慢性心不全の急性増悪のときの治療薬として用いられています」
このホルモンは1984年にペプチド研究の第1人者である、国立循環器病研究センター研究所の寒川賢治研究所長や、松尾壽之同名誉所長らが発見。「ハンプ」として製品化したのも日本のメーカーで、1995年の発売以来、広く心不全患者に使われている。
*ハンプ=一般名カルペリチド
偶然見つかった抗転移効果
そのANPに、肺がんの転移を防ぐ働きがあることを突き止め、転移予防の臨床研究に取り組んでいるのは、国立循環器病研究センター研究所・生化学部ペプチド創薬研究室長の野尻崇さんらのグループだ。
肺がん患者の中には、高齢者や、慢性閉塞性肺疾患(COPD)などの肺疾患を併存している人もいて、手術を行うと約2割の患者に脈が異常になる不整脈が起こるとされる。そこで野尻さんらは、肺がん手術の周術期管理の一環として、こうした不整脈を予防する目的でANPを投与した。手術直後の合併症を予防するのが目的なので、通常の投与量よりも少ない低用量にし、投与するのは手術前後の3日間のみ。すると、不整脈を防ぐだけでなく、予想もしていなかった意外な効果が表れた。ANPを投与した患者では、術後のがんの再発が起こりにくかったのである。
野尻さんらが分析した治療成績によると、手術だけのグループと、手術の前後にANPを投与したグループとに分け、手術から2年後までに転移が起こらず再発しなかった人の割合(無再発生存率)を比較したところ、手術だけのグループでは無再発生存率は67%だったのに対し、手術前後にANPを投与したグループでは91%と、無再発生存率が24%も上昇したことがわかったのだ(図1)。
「がん」ではなく「血管」に働く
なぜANPは、がんの転移を防いだのか?
最初に考えられたのは、ANPには抗腫瘍効果があるのではないかということだった。がんは様々な臓器で発生し、転移をするが、心臓にがんができることはほとんどない。それは、ANPのような心臓ホルモンが、心臓を守っているからではないかと野尻さんらは考えた。そこでマウスを使った実験を行ったが、ANPにがん細胞を攻撃する作用は認められなかったという。そうだとするのなら、別のメカニズムが働いているのかもしれない。そこで似鳥さんが指摘するのは、がんの転移に関しての「シード・アンド・ソイル(種子と土壌)説」と呼ばれる仮説だ。
「今から120年も前にイギリスの学者が提唱した説ですが、簡単に言えば、がんの転移は植物の種と土壌の関係にあるというものです。固いコンクリートの上に種を蒔いても植物は育ちません。適した土壌に種を蒔くと発芽します。これと同じで、育つのに適した環境があると、がんはそこに生着し増殖を始めます。ANPはソイル、つまり土壌をコンクリート化する役割を持っていて、シードつまりがんという〝種〟が発芽し成長していくのを防ぐ働きをしているのではないか、と野尻先生らは考えたわけです」
野尻さんらを中心に様々な実験を繰り返す中で、ANPはがんを攻撃するのではなく、血管を守る働きによって、がんの転移を防いでいることを明らかにしたという。
炎症が招く転移の〝芽〟
がんが転移するには、増殖したがん細胞が原発巣から離脱する必要がある。離脱したがん細胞は血管内に侵入するが、通常はマクロファージなど免疫細胞の攻撃により大部分は転移することなく1~2日ほどで死滅すると考えられている。ただしこのとき、血管に炎症が起こっていると、血管壁の内側に「E-セレクチン」という接着分子がたくさん作られるようになる。すると、がん細胞は接着分子にくっつきやすいため、そこを足場として増殖を始め、転移を起こしてしまうのだ。
似鳥さんによると、がんの手術では切除する際にがん細胞が散らばってしまう可能性が全くないとは言い切れないという。
「肺にはたくさんの血管が走っていて、がんの手術をする際にこれらの血管を切除する必要があります。すると、血管の中にがん細胞が散らばってしまう可能性がゼロとは言い切れません。その上、手術侵襲によるストレスは炎症を引き起しやすくします。炎症が起こるとたくさん作られるようになるのがE-セレクチンという接着分子です。血管に流れ出たがん細胞はE-セレクチンとくっつきやすく、血管壁に生着して転移巣を形成してしまいます」
これに対して、血管を保護する働きを持つANPは、血管に作用してE-セレクチンの発現を抑制する働きを持つ。この結果、がん細胞が血管壁に接着、増殖してしまうのを防いでいることがわかったという。E-セレクチンと接着することができなければ、血管内に遊離したがん細胞はそのまま流れに任され、最終的には免疫細胞の攻撃にあって消滅してしまうというわけだ(図2)。
転移予防のためのANP投与は、手術直前から手術後の3日間に限って行われるが、「そこがこの治療のミソでもある」と似鳥さん。
「遊離したがん細胞は血管内に1日か2日ほどいるうちにマクロファージなどにより食べられてしまいますが、血管壁に生着できずにいるがん細胞はまさにその餌食になってしまう。転移を防げるかどうかはその1日か2日が勝負なので、ANPの投与は、手術前後の周術期に行うことに意味があると考えます」
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