- ホーム >
- 連載 >
- コラム・レポート >
- 腫瘍内科医のひとりごと
腫瘍内科医のひとりごと 72 「がん人生の充実」
Kさん(肺がん・73歳女性)はある大学病院で肺の手術を受けた1年半後、がんは両肺に再発しました。分子標的薬の内服で、がんの影は小さくなり、咳などの症状は消えて元気になりました。
その頃のKさんからのお手紙です。
「私は、おかげさまで症状もなく……、70歳を過ぎれば誰でも慢性病や不具合の1つや2つはあるという普通の人と変わらない日々を過ごしているのだと自覚してから、心にへばりついたがんや死からようやく解放されたように思いますが、これを覚悟ができたと言っていいのかどうかわかりません。
死の準備のための時間を生きるのではなく、生ききるための時間を生きようと思うようになりました。死ぬのが怖いのは生き物の本能的な恐怖、どんなに取り乱すことになってもいいのではないかと思っております。
……今のがん医療は治療する甲斐があるうちはするけれども、打つ手がなくなったらホスピスへと突き放すという冷たさがあるように思います。生と死を分断するのではなく、2つをつないで、死にゆく人それぞれの思いに添って『死ぬまで生きることを支える医療』の視点が欲しいですね」
「死ぬまで生きることを支える医療」の大切さ
今年の日本癌治療学会(10月20~22日)において「社会全体で考えるべきがん人生の充実」というパネルディスカッションが企画され、私は「治療医として思うこと」と題して話しました。がん人生といってもさまざまで、何を話そうかと考えているうちにKさんのこの手紙を思い出したのです。
確かに治療法は進歩しましたが、薬だけで治癒するのはまだまだです。また、最近の薬剤は高額であることも問題です。
国のがん対策基本計画では「がんになっても安心して暮らせる社会の構築」と謳い、拠点病院の整備は進み、病院内に相談支援センターが出来ていても、とくに治療が困難となった患者さんの「心の支え」は明らかに不足していると思います。
ある医師たちは、しっかりした死生観を持てとか、死を受容することが大切とか言われます。幸せな死、Good deathを良しとする意見、末期がんになっても副作用が少ない分子標的治療薬を内服している患者さんを嘆く医師もおられます。
しかし、人間は生きたいのは当たり前だし、がんでいのちを断たれる死は、たとえ表面的に幸せを装っていても、悲しいことには変わりません。
「生まれてきたからには死が必ずくる。人間はみんな死ぬ、次は自分の番だと思えばいいのだ」、それは誰でもわかっているのです。それを理解できていても、本当に死がすぐそこに近づいたときは、生きたいという気持ちが強くなるのは当然のことだと思うのです。
治癒が望めないであろう患者さんの人生に我々はどう貢献できるか。本人の希望、医療体制、病院と在宅医との関係、ホスピス、介護施設など1つひとつ考えてみました。
がん人生の充実には、最期はどうあるべきだと注文するのではなく、Kさんの「それぞれの思いに添って『死ぬまで生きることを支える医療』」がとても大切であると思いました。