「栗田さんは私にとって『希望の星』です」 「余命1年」と宣告されてから18年9カ月。腹膜中皮腫患者の歩んだ軌跡

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2018年9月
更新:2019年3月

  

栗田英司さん 「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」関東支部中皮腫相談担当

くりた えいじ 1966年10月静岡県静岡市生まれ。清水市立商業高校卒。大手電機メーカーを経て精密機器会社に就職。33歳のとき腹膜中皮腫と診断され余命1年の宣告を受ける。2000年4月東京都立亀戸技術専門学校入学。2001年5月、情報管理会社入社。2008年6月退社。2009年Nタクシー入社。2017年9月右田孝雄さんと「中皮腫サポートキャラバン隊」を始める。現在、「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」関東支部中皮腫相談担当。著書に『もはやこれまで』(星湖舎)がある

<病歴>
1999年12月15日(33歳):静岡県立総合病院で第1回手術。腹膜腫瘍摘出手術 同年12月24日:腹膜中皮腫と診断され余命1年の宣告を受ける 2004年4月21日(37歳):第2回手術。腹膜再発腫瘍摘出手術 2007年12月6日(41歳):第3回手術。腹膜再発腫瘍摘出手術 2014年12月12日(48歳):第4回手術。腹膜再発腫瘍摘出手術、肝左葉外側区転移切除 2016年4月(49歳):腹膜播種増大、肝臓と肺に遠隔転移、手術不可能で抗がん薬治療を勧められるが治療を延期

腹膜中皮腫と診断され「余命1年」の宣告を受けた栗田さん。その後4回の腫瘍摘出手術を受け、これまで命をつないできた。しかし49歳で手術不可能と告げられ抗がん薬治療を勧められられるが治療を延期。今年の4月、ついに腹水が溜まり始めた。「もはやこれまで」の状態になった栗田さんだが…… 。

健康診断で発見される

がんは、本人に何らの自覚症状がない場合にも発見されることはままあることだ。栗田さんの場合もそうだった。

当時、大ブームだった『ノストラダムスの大予言』では「1999年7月に恐怖の大王がやって来て人類が滅亡する」と巷で騒いでいたまさにその7月、会社の健康診断で「胃に影がある」と医師から指摘されたのだった。

実は栗田さんは、前年の7月の健康診断で同じ個所に影があり、医師からの「体の調子はどうですか」と問いかけられていた。そのときは「とくに問題はありません」と答えていた。このときも同じ答えをした。

しかし、医師からは「2年連続して影があるので、念のため精密検査をしたほうがいい」と勧められた。

9月、栗田さんは自宅近くの都立府中病院でCTとMRIを撮った。

11月に、その検査の結果を聞きに府中病院に向かった。体調は相変わらずいいし、そのときまで何の心配もしていなかった。しかし、その期待は見事に裏切られ、「ゴルフボールぐらいの腫瘍があるので、2週間後に手術をします」と告げられたのだった。

そんな結果をまったく想定していなかった栗田さんは、静岡県立総合病院に看護師として勤務している姉に相談の電話を入れた。話を聞いた姉は、「紹介状を持ってこっちにおいで」と言ってくれた。

「余命1年」の宣告を告げられる

早速、静岡に戻った栗田さんは、11月下旬静岡県立総合病院に検査入院した。

検査の結果、医師から「最大5㎝ぐらいの腫瘍が複数房のようにつながっていて、それが何なのか、また良性なのか悪性なのかもわからない。とにかく、これだけたくさん腫瘍があるのだから切除するしかない」と告げられた。病名はまだわからなかった。

12月15日、腫瘍摘出手術が行われ、最大5㎝程度の腫瘍から小豆程度の小さな腫瘍まで合計約40個の腫瘍を切除した。小さい腫瘍は1つひとつ取ることが出来なかったため、腹膜ごと約2㎏摘出された。

摘出された腫瘍(左)、腹膜ごと2㎏摘出された腫瘍

最初の手術後の栗田さん(1999年)

12月24日のクリスマスイブに、医師から腹膜中皮腫(ふくまくちゅうひしゅ)との病名を告げられ「余命1年」と宣告を受けた。

「『でも診断書には、比較的早期の腹膜中皮腫である』と書かれているんですね」と栗田さん。早期なのに余命1年と診断されたのには理由がある。

その当時、腹膜中皮腫が早期で見つかることは珍しく、症例として残っている100例ぐらいの患者のほとんどが1年以内に亡くなっていたからだ。

栗田さんが罹った病は、それだけ発見されることが珍しい病気だった。

クリスマスイブにとんでもないプレゼントを受け取ってしまった。栗田さん33歳のときである。この瞬間、栗田さんは結婚して普通に暮らしていく生活は諦めたのだという。

腹膜中皮腫とはどんな病いか

では、栗田さんが診断された腹膜中皮腫とはどういう病気なのか。国立がん研究センターのHPから要約してみる。

肺や心臓などの胸部の臓器や胃腸・肝臓などの腹部の臓器はそれぞれ胸膜、心膜、腹膜と呼ばれる薄い膜に包まれている。この薄い膜には中皮細胞が並んでいてその中皮細胞から発生するがんを中皮腫といい、その発生する部位によって胸膜中皮腫、心膜中皮腫、腹膜中皮腫などがある。

中皮腫は、そのほとんどがアスベスト(石綿)を吸ったことにより発症する。アスベストを吸ってから25年~50年ほどで発症するとされている。アスベストにさらされること(曝露)が多いほどまたその期間が長いほど発症のリスクが高くなる。

栗田さんが発症した腹膜中皮腫は、中皮腫のうちの2割弱とされている。

抗がん薬治療の中止を申し出る

医師からの余命1年の宣告を告げられた栗田さんだったが「ついにそのときが来たのか」と思った程度で、特別動揺することなかった。

栗田さんは小学校5年のとき母を手術中のミスで亡くしたこともあり、人の命や人生の目的などについて考えるような人間になっていた。人生の意味を問うため、いろんな宗教に出会っていく。

19歳である宗教に出会い、洗礼を受け25歳でその宗教を離れるまで宗教活動に青春を捧げてきた。その宗教からは退会したものの、母の死などを通して「人は死ぬときがきたら死ねばいい」という精神的土壌が栗田さんの中には培われていた。

そんな栗田さんでも、抗がん薬の副作用には心底参ったという。

手術時に腹腔内にシスプラチンを投与された。19日間の入院生活で、栗田さんの体重は67㎏から58㎏まで落ちていた。術後の治療スケジュールは月1回、腹部に埋め込まれた腹腔ポートから続く留置カテーテルからシスプラチンを直接腹腔内に投与する抗がん薬治療をすることになった。

2000年1月中旬、シスプラチン投与のため病院に行った栗田さんは投与後、しばらくして酷い吐き気に連続して襲われた。とにかく苦しくて、生きる気力がまったく湧いてこないくらいつらいものだった。

医師は「腹膜中皮腫には確たる治療法がないので、念のためにシスプラチンを使用する」と栗田さんには話していた。

「効くかどうかもわからないのに、こんな苦しい思いをして残り少ない人生を無駄にするのは耐えられない」と訴えて抗がん薬治療を中止してもらった。

「死ぬ死ぬ詐欺」じゃないか

「余命1年」と宣告された栗田さんは、ここで驚くべき行動に出る。13年勤めて管理職になっていた精密機器製造会社を辞め、都立亀戸技術専門学校電子計算機科(1年コース)に通うことを選択したのだ。

「僕は高卒なので、できればもっと勉強したかったんですね。学生生活を送りたかったんです」と栗田さんは話す。

栗田さんは7年間、宗教活動に青春を捧げていたので、「余命1年」の宣告を受けたことで失った青春を取り戻したかったのかもしれない。それに「職業訓練校なら在学中は失業給付金が受け取れるので、生活に困ることもないだろう」と考えたからだ。

2000年4月入校してみてクラスでは最年長だということに気づかされたが、応募要件が30歳以下となっていたので無理もないことだった。

授業は月曜日から金曜日の朝9時から16時30分までで、若い人に負けまいと懸命に勉強したという。また、1年間という短い時間で「失われた7年間を取り戻す」かのように野球や飲み会、マージャン、パチンコ、ビリヤード、ボーリング、スキーなど手当たり次第に何にでも手を出し学園生活を大いに満喫した。

「ただ勉強も最初の頃だけで、後半は遊ぶことにかまけてしまいました」と栗田さんは苦笑する。

マージャン仲間には入校当初、「自分はがんで、今年のクリスマスイブまでの命なので人生を楽しませてもらう」と話していた。彼らは同情してくれ、協力を惜しまなかったという。しかし、2000年のクリスマスイブが近づいても栗田さんは一向に死ぬ気配はみえなかった。「仲間からは『死ぬ死ぬ詐欺』じゃないかと言われました」と栗田さんは笑いながら話す。

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