自分の医者体験から標準治療を拒んでいたが…… 今後は再発防止や予防医学を代替療法で
星子尚美さん 星子クリニック院長/医学博士
大学病院での研修医時代、若き日の星子さんは現代医療の限界にぶち当たり、医師を辞めようとまで思い詰める。そんなある日、肺がんで亡くなった患者さんが自分宛に書いた遺書を読んでこれからは自分が納得いく医療をやろうと決意する。そんな星子さんが乳がんに罹(かか)り自分の信念を貫くべきか悩み抜き下した決断は――。
自身の乳がんに気づくも
静岡県三島市で眼科内科クリニックを開業していた星子さんが、両胸にしこりがあるに気づいたのは2005年末のことだった。
クリニックを開業してやっと軌道に乗り始めた頃で、その街には救急病院がなかったこともあり、熊本で開業していた父に倣(なら)って夜も診療する毎日だった。そんな忙しい日々を送る間にも父が亡くなり、叔父も亡くなりした。また家庭内ではご主人のトラブルも抱えていて心身ともに疲れ果てていた。
「医師としてなんと無力なんだろう」
星子さんの父は熊本大学医学部の第二外科を退官した後、熊本市内で病院を開業していた。そのこともあって医師を目指した星子さんだが、子どもが好きなこともあり、小児科を目指していたのだが、小児科の研究室に入ることが叶わなかった。
そんなとき父の病院に手伝いに来てくれていた熊本大学医学部放射線科の助教授がいた。
「その助教授に小児科の研究室に入ることが叶わなかったことを話すと、これからは放射線の時代になると話されたので、放射線科の研究室に入れていただきました」
熊本大学医学部で放射線科の研修医をしていた星子さんが、現代医療に疑問を持つようになったのは、当時の手術、化学療法、放射線治療の3大治療をがん患者に施しても誰一人助けられなかったのを目の当たりにしたからだ。
それだけでなく、星子さんを放射線科に誘ってくれた助教授も大腸がんの病に倒れた。
大腸がんが見つかったときには肝臓にも転移していて腹水も溜まっていた状態だった。
「お前はいつも純粋に患者さんのことを考えているから、お前がいいと思う治療をしてみてくれ」と、助教授は星子さんに自分の主治医になって欲しいと頼んだ。
「私は研修医で何もわからないし、先生の治療なんてとても出来ませんと断ったのですが、君に是非やってほしいと熱心に頼まれました」
「その当時は、腹膜潅流(ふくまくかんりゅう)はやってなかったのですが、それをやったり、また、いまの肝臓の塞栓術(そくせんじゅつ)なども試してみたりしました。その都度、先生は自身の身を以って『これはだめ、これはいい』と、私に教えてくれました」
そのような治療を施してみたものの病状は一向に回復せず、最後には「もう何もしなくていい」と言って亡くなってしまった。
「自分は医師としてなんて無力なんだろう、と本当に悲しかった」という。
担当した患者の遺書を読んで立ち直る
また、研修医として最後に受け持ったのが肺がんの患者さんだった。星子さんは何とか治してあげたいと治療に励んだのだが、この患者さんも亡くなってしまった。
「自分は人助けをするために医師になったのに、まるで人殺しの手伝いをしているのではないだろうかと落ち込んでしまい、医師を辞めようかと思うようになりました」
そんな鬱々(うつうつ)とした日々を続けていたある日、星子さんの元を男性が訪ねてきた。その男性は肺がんで亡くなった患者の息子さんで、宮崎から星子さんを訪ねてやって来たのだ。
亡くなった患者さんが3通の遺書をベッドの下に残していて、その1通が星子さんに宛てたもので、その遺書を渡すためわざわざ宮崎から出て来たのだった。
それには最後の力を振り絞って書いたと思われるミミズがのたくったような文字で、本当に一生懸命治療してくれてありがとうという感謝の気持ちと、立派な医者になって欲しいという願いが記されていた。
「その遺書を読んで、患者さんから自らの死をもって医師としての在り方を教えてもらったのに、軽々に辞めるなんて言ってはいけないと、そのときに、患者さんを治せなかった現代医療ではなく、自分の納得のいく治療をやっていくため代替医療を目指すようになりました」
一人息子のたっての願いで乳がん全摘手術を決意
そんな経験をした星子さんだが、2006年の秋になると自らの周辺もやっと落ち着いてきたので、自身の治療に本腰を入れることにした。しかし、現代医療ではなく自らの信念である代替医療をやってくれる医師を捜したのだが、星子さんの依頼を引き受けてくれる医師はどこにもいなかった。それでも、星子さんは3大治療をやりたくはなかったという。
そんな折、星子さんの背中を押してくれたのが、当時中学1年の息子だった。
「お母さん、とにかく手術だけでも受けて」と懇願されたのだ。現代医療に疑問を持っていた星子さんだったが、一人息子の頼みをさすがに無下にすることはできなかった。
「自分としては手術もしたくはなかったのですが、他ならぬ一人息子の頼みだったので、手術だけはやろうと決断しました」
そう決断した星子さんは知り合いの医師に頼んで手術だけをしてもらった。
星子さんが自分で乳がんを発見してから、およそ1年は経過していた。
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