100まで長生きしたい! 3度の乳がんを乗り越えて欲が出てきた

取材・文●髙橋良典
写真提供●川上いづみ
発行:2023年9月
更新:2023年9月

  

川上いづみさん 主婦

かわかみ いづみ 1960年東京都生まれ。81年昭和音楽短期大学卒業。同年中野サンプラザに入社。84年中野サンプラザ退職、ニッポン放送制作部にアルバイトとして勤務。85年より構成作家として番組制作に携わる。89年結婚。91年出産に向けてすべての仕事を辞める。92年娘を出産。1996年から写真店でアルバイト勤務。2015年までがん治療中も休まず働く

42歳で最初の乳がんを体験し、その後2度に渡る乳がんを乗り越えてきた川上いづみさん。

その間には離婚も経験し、一生分の涙を流したという。しかし、人生は悲しくつらいことばかりではない。

情緒不安定なときも支えてくれた今の夫と再婚。ピアサポーターとして同じ乳がんサバイバーとの出会い、娘と念願のヨーロッパ旅行を果たすなど、うれしいことも数多くあったという。そしていま100まで生きたいと語る川上さんにその思いを訊いた——。

左胸にパチンコ玉くらいのしこり

今から20年前のこと。夜中に目が覚めた川上いづみさんは、ふと触った左胸にパチンコ玉くらいのしこりがあることに気づき飛び起きた。しかし、10月に受けたエコー検査では「異常なし」と言われていたので、「まさか!」と思った。

だからそのまま放置していたのだが、やはり気になってきて12月に入って近所の病院を受診した。すると診察した医師に「すぐに大きい病院を受診しなさい」と、白金にある病院を紹介された。

そこでMRI検査や針生検を行った結果、翌年の2003年1月に乳がんとの診断が下された。川上さん42歳のときだった。

「腫瘍の大きさは1.7㎝だと言われショックだったんですが、自分ががんで死ぬという恐怖よりも、胸がなくなることで、この先女性としての体ではなくなる気持ちが強く、子どもの前では泣かなかったものの毎日、風呂場などで泣いてばかりいました」

温存内視鏡手術を勧められる

1月29日から腫瘍を小さくするため術前化学療法が始まった。

「このときは抗がん薬の副作用は脱毛だけでした」

12回の化学療法の結果、腫瘍が小さくなった。

主治医からは「川上さんはまだ若いのだから」と温存内視鏡手術を勧められたのだが、当初は、「乳房を残すと再発の心配をしなくてはならない。それなら後々のことを考えて、全摘したほうがいいのではないか」と思った。

「そのことを主治医に伝えると、『川上さんはまだ若いし、全摘しなくても大丈夫』と言って、温存内視鏡手術を受けた患者さんの術後写真を見せてくれました。でも、当時の私はいくら温存手術といっても傷やへこみがあり、その写真のような状態になることがすごく怖かったですね」

それでも、主治医から勧められた温存内視鏡手術に決めて5月12日入院。最終検査などを行い、1週間後の19日に手術が行われた。

当時、センチネルリンパ節生検はまだ行われていない。転移は見つからなかったが、腋窩リンパ節郭清を行った。同時に乳房再建のため、下腹部から脂肪を取り出す手術も行われた。

6月4日に退院し、7月9日からはホルモン療法として月1回リュープリン(一般名リュープロレリン酢酸塩)注射が始まった。トータル14回行ったが、ひどいホットフラッシュに襲われた。

7月17日からは放射線治療も始まり、計25回行われ、また同時に抗エストロゲン薬ノルバデックス(一般名タモキシフェン)の服用が始まり、5年間服用した。

「当時は半年に1度、造影剤を入れたCT検査を行なったり、1年に1度、骨シンチの検査を行なったりしていました。5年過ぎてからは半年に1度は定期検診を行いましたが、それほど大きな検査はしなくなりました」

術後、左腕が全く上がらなくなり、必死でリハビリを行い、「当時、小学生だった娘の成人式の晴れ姿を見るまでは絶対に生きていたい」と強く思った。

また、当時は仕事と家庭だけの生活を送っていた川上さんだったが、「残りの人生、何か自分のやりたいことをやろう!」と、ゴスペルを始めた。2007年にはハリケーン・カトリーナ(2005年)で壊滅的被害に遭ったニューオリンズに募金を持参し、ゴスペルフェスティバルにゴスペル仲間と参加し歌ったりもした。

2007年ニューオリンスでゴスペルを歌う川上さん(前列左から2番目)

再建した箇所がゴツゴツ硬くなっている

その間にも主治医が清瀬の病院に転院したため、川上さんもそこで定期検診を受けるため通うことにした。

左乳房を手術して8年目の頃、再建した箇所が岩のようにゴツゴツに固くなってきていることに川上さんは気づく。

「内視鏡手術だったので傷跡は目立たず、また自家脂肪で乳房再建していたので、見た目は本当にきれいで、友達と温泉に行っても『言われなければわからない』と言われていましたので、それまでは内視鏡手術にして良かったと思っていました」

事前に主治医からは「左胸に挿入した脂肪が溶けて流れたり、石灰化する場合がある」と聞かされていたので、「ゴツゴツした感じが嫌なので取り出したい」と主訴した。

しかし「折角、再建したのだからそのままでいいのではないか」と言われたという。

2012年1月に定期検診に行ったときには、その箇所がゴツゴツ硬くなって、さらに変色していた。それを見た主治医は慌てた様子でMRI検査やPET検査などを指示。その結果、がんが出来ていることが判明した。

主治医からは「ここでは手術できない」と言われ、赤坂にあるクリニックを紹介された。

そこで再び検査し直し、そのクリニックの医師が連携病院である国際医療福祉大学三田病院に出向き、2012年5月8日に左胸全摘手術を行ってくれた。川上さんの新たに見つかったがんは希少がんの粘液がんだと判明した。

川上さんは16日に退院したのだが、1回目の手術のときと比べて入院期間が24日間から10日間に短縮したり、1度目は術後ICUに一晩いたが2度目は麻酔から覚めたら一般病室に戻されているなど、1度目のときといろいろ変わっていて医療の進歩に驚いたという。

また2度目のがんを機に長年夫婦関係がギクシャクしていた川上さんは、娘さんが20歳になったのを機に離婚を決意する。

「最初のがんになる前から夫婦関係はうまくいってなくて、もう1度、がんになったら別れたいという思いがズーッとありました。最初のがんになったとき『君にかかるお金は君の親に出してもらえばいい』とまで言われました。こんなことを言う夫と、このままいまの生活を続けていたらまたがんになるのではないかと思ったからです。そして案の定がんになってしまいました」

2度目の副作用は強烈だった

6月4日からは、タキソール(一般名パクリタキセル)の術後化学療法が始まった。

「1度目の抗がん薬治療の副作用は脱毛だけだったのですが、でもそれが一番嫌でした。だから、またやるのかと思って泣いてしまいました」

しかし、2度目の副作用は1度目のときに比べて桁違いに強烈なものだった。

「脱毛はもちろん、味覚障害、下痢もひどく、全身に倦怠感がありました。手足の爪はジュルジュルして感染症のような状態になり、当時は写真店で働いていたので手袋を付けてお客さんに応対していました。また立っているのもつらくて、お客さんのいないときは靴を脱いで裸足になって作業をしていました。靴を履いて歩くのもつらくて、最寄りの駅から裸足で帰ったことも何度もありました」

術後化学療法は計12回、3カ月続いた。

また、同時期から腫瘍の核酸増殖を抑えるフルツロン(同ドキシフルリジン)の服用と腫瘍のDNA複製阻害作用やDNA破壊作用に効果のあるエンドキサン(同シクロホスファミド)の服用が始まり、さらに半年に1度、骨折予防のためのゾメタ(同ゾレドロン酸水和物)の点滴も始まった。

2013年10月からは半年に1度のゾメタを除いて、ホルモン薬のアロマシン(同エキセメスタン)の服用のみになる。

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