骨肉腫を生きるための軸にしない プロサッカー選手を目指していた17歳の夏に発症

取材・文●髙橋良典
写真提供●柴田晋太朗
発行:2023年8月
更新:2023年8月

  

柴田晋太朗さん フットゴルフ選手

しばた しんたろう 1999年神奈川県鎌倉市生まれ。3歳からサッカーを始め、中学進学と同時にFC厚木ドリームスに入団。3年間で関東大会出場。2015年日大藤沢高校進学、インターハイ準優勝、U-17神奈川選抜キャプテンとして韓国遠征。2016年悪性上腕骨肉腫に罹患。置換手術、肺転移手術3回で右肺上葉部を切除。2019年5月はやぶさイレブン(現厚木はやぶさFC)フットゴルフ部門に所属。2021年4月フリーに。2023年、米国で開かれたフットゴルフワールドカップ日本A代表に選出される

3歳からサッカーを始め、プロサッカー選手を目指して日々サッカーに打ち込んでいた柴田晋太朗さんは17歳のとき右肩の骨肉腫に。治療の結果、一度はサッカーに復帰できた。

しかし、その後肺に転移が見つかり、右肺の4割を切除。プロへの夢を断念せざるを得なくなった。

その後、フットゴルフと出合うことに。今年、「フットゴルフワールドカップ2023」の日本A代表に選ばれ、世界の舞台に立つことができた。フットゴルフで世界一を目指す。それが新たな目標となった——。

韓国遠征中の試合で右肩に激痛!

サッカー競技一筋に打ち込む青春を送っていた柴田晋太朗さん。右肩に違和感を覚えたのは、日大藤沢高校2年の夏。17歳のときのことだった。

「7月頃から右肩が重く、何となく肩が上がらないと感じていました。それが、U-17神奈川選抜として8月に韓国遠征に行ったときに、ズキズキする痛みに変わっていました。

1試合目のプレー中、相手の選手と接触したとき、右肩に息ができないくらいの激痛が走り、そのまま蹲(うずくま)ってしまいました。私は痛みには鈍感なほうですから、これまでそんな痛みの経験は一度もありませんでしたね。その瞬間のことはいまでも鮮明に覚えています」

U-17神奈川選抜のキャプテンとして試合に臨んでいたが、その後も痛みに堪えて全試合に出場した。

「この場所に立てなかった仲間のことを考えると、このくらいの痛みでピッチを退くことは彼らに対して失礼だと思ったし、何が何でもこの韓国遠征はやりきるという気持ちで試合に挑んでいたので、一切の言い訳なしでした」

8月の韓国遠征でコーナーキックを蹴る柴田さん

「これ腫瘍だよ」

肩に違和感を覚えていた当初、近所の鍼灸医院で針の治療を受けていた。針を打ったときは痛みは軽くなるものの、すぐに元の状態に戻ってしまっていた。

韓国遠征から帰国した柴田さんは、サッカーの練習より「この痛みを何とかすることが先決だ」と考え、小学生の頃からお世話になっている整形外科を受診した。

当日はレントゲン撮影を行い、院長から「肩に骨感染がみられるので、MRIを撮影してきてください」と言われたので、東海大学医学部付属病院でMRI撮影を行なってきた。

画像データを見た院長は、慌てた口調で柴田さんに「これ腫瘍だよ」と告げた。

しかし、その当時、腫瘍の意味が良くわからなかったので、どうして院長がそんなに慌てふためいた口調で話しているのか訝(いぶか)しく思った。

病院を後にした柴田さんは母親に電話を入れて診察結果を伝えると、母親は「えっ!」と一瞬絶句した。すぐに母親は整形外科病院の院長に電話を入れ、翌日改めて病院に出向いた。院長は泣かんばかりの口調で、母親に「一刻も早く他の病院で治療されることが必要です」と訴えた。そこで、2~3病院を当たってみたものの、「うちでは無理です」と断られてしまう。

最終的には、親戚の方ががん研有明病院の医師と面識があり、その医師を紹介されて治療を受ける手筈になった。その医師が現在の柴田さんの主治医である。2016年9月のことだった。

診断名は「悪性上腕骨肉腫」

改めて、がん研有明病院で採血やレントゲン、MRI、CTなどの検査を丸1日かけて行った。その夜、主治医から「これは悪性上腕骨肉腫の可能性が高いので、すぐ入院して抗がん薬治療が必要」と告げられた。

そのときは、そう告げられてもことの重大さを理解できず病院を後にした。

後日、病院に行って生検手術を行い、主治医から病名を悪性上腕骨肉腫と正式に告げられた柴田さんは、すぐに「サッカーは続けられますか」と尋ねてみた。

主治医は一言、「この病気を治せばサッカーは続けられる」と言ってくれた。

その言葉を聞いて「絶対治して見せる」と決意が固まった。

骨肉腫は原発性悪性骨肉腫の中では最も発生頻度の高い腫瘍だが、10代~20代の若者の膝の周りや肩の周囲に発症することが多く、年間200~300名ほどの希少がんである。ただ高齢者にも一定の割合で発症すると言われている。

治療法は多剤併用化学療法と手術で、世界的にもその標準治療(術前化学療法→手術→術後化学療法)は確立されている。

真ん中の青服が柴田さん、奥が同い年、手前は当時小学生の闘病仲間

病院前の公園で、入院中も体力維持のためサッカーを

その日は一旦帰宅、翌々日から5日間入院して1クール目の抗がん薬治療が始まった。

1クール目はシスプラチン(一般名)+アドリアマイシン(一般名ドキソルビシン)の併用療法だった。

抗がん薬の腎機能障害を軽減するため経口で水分補給し、その後3時間の化学療法を行い、また大量の水分補給をする。これが1セット。5日目以降は体調が良ければ帰宅することができ、改めて3週間期間を開けて2クール目を再開するというものだ。通常は1週間の治療を行い4週間の休みで1クールなのだが、柴田さんの願いでこのような変則治療を行った。

「副作用のことも聞いていたので少しドキドキしながらスタートしたのですが、最初の1サイクル目は拍子抜けするくらいとくに目立ったものはありませんでした」

柴田さんは抗がん薬治療中も10月18日~24日までカナダに修学旅行に行ってもいる。

主治医も「晋太朗くんが行きたいなら、止めはしません」と言ってくれていた。

「そもそもこの病院は患者を拘束しない治療方針で入院中も結構、自由にさせてもらっていました。だからサッカーに復帰することを前提に、病院の5階にある庭園を20分ぐらい走ったりして体力維持に努めていました」

アナフィラキシーショックを起こす

カナダ修学旅行から帰国翌日にまた入院して、2クール目の化学療法が始まった27日にアナフィラキシーショックを起こしてしまった。

「その瞬間、息が出来なくなったので、ナースコールですぐに駆けつけてもらい、点滴を外し、水分を体内に入れ、15分後にようやく落ちつきました。抗がん薬がメトトレキサートに変わったことや修学旅行の疲れもあったのかも知れません」

アナフィラキシーショックが起きたことで2~3日間空けて、元のレジメンに戻して化学療法が再開された。

その後も抗がん薬の副作用として白血球の数値が基準値以下に下がり、激しい運動をすることを禁止されたりもした。

そんなこともあったが、11月には3クール目が終了。化学療法で腫瘍は小さくなっていたので、12月に右上腕骨を人工骨に置換する手術が決まった。

「がん細胞で覆われている骨を切り取るのと同時に周辺の筋肉を取り出し、代わりに人工関節を埋める手術を7時間ぐらいかけて行いました」

置換手術後、柴田さんは翌年(2017年)4月まで術後化学療法として、毎月イホマイドやカルボプラチンの投与を受けていた。

そして4月の検査でMRIやCT検査の結果、転移は見つからず一旦、悪性上腕骨肉腫の治療は終了、5月から学校に復帰した。

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