骨肉腫治療による人工膝関節置換術を受け、スポーツに果敢に挑戦するアスリート魂
人工関節でも運動できることを自分の体で証明してみせる!
(団体職員)
いまり さき
1983年生まれ。2004年の中京大学体育学部2年生のときに左膝に骨肉腫を発症し、人工膝関節置換術を受ける。翌年、再発・肺転移への治療を経て、2007年教員免許を取得。2009年、「運動器の10年世界運動キャンペーン」のイベントでオーストラリア大陸を電動アシスト付き自転車で走破
人工膝関節の見本をもった今利さん。重さ約2キロの金属の塊はいかにも重い。運動器の10年世界運動キャンペーン「日本縦断駅伝」にて
体育教師を目指していた大学2 年生のとき、膝の骨肉腫を発症。
人工関節の手術後、局所再発と肺転移を乗り越え、いま、オーストラリア大陸を自転車走破するなど、スポーツに果敢に挑戦。
「人工関節で運動をする最初の人になろう!」と心に決めている。
彼女を動かすものはなんだろうか。
アスリートであるための壮大な挑戦!
骨肉腫の治療法の1つに、「人工膝関節置換術」がある。これは、膝の回りの骨にできた腫瘍をとり、代わりに人工関節を入れるというもの。足を切断せずに温存できる半面、摩耗や破損を起こしやすいため、「人工関節を入れたら激しい運動はできない」といわれている。
人工関節でもアスリートとして生きたい!──そう信じて、身をもって"限界"に挑戦し続けている人がいる。横浜市在住の今利紗紀さん(28歳)だ。
現在、市の体育協会でスポーツイベント企画に携わる今利さんは、大学2年のとき、左膝に骨肉腫を発症。手術で人工関節を入れたが、再発と肺転移を経験し、抗がん剤治療と手術を繰り返した。それでも、アスリートとしての自分をあきらめきれず、リハビリとトレーニングを継続。2009年、電動アシスト付き自転車によるオーストラリア横断に挑戦し、見事、59日間で5000キロを完走した。
「病院の先生たちには、『人工関節でスポーツするのは無理』と、言われてきました。でも、今は『5000キロ走ったんだから、無理じゃないでしょ』と胸を張って言える。してやったり、という気持ちでしたね」
可憐な外見に似合わず、その体には、尋常ではないパワーが秘められているようだ。骨肉腫から生還し、前例のない"人工関節アスリート"への道を歩み始めた、今利さん。そのあくなき挑戦の記録をたどってみたい。
体育学部2年のとき左膝の痛みが悪化
子どものころからスポーツが好きで、陸上クラブや競技スキーで活躍。愛知県豊田市の中京大学体育学部に進学した。
「運動が大好きな自分なら、学校で受けた体育の授業よりももっと面白い授業にしたい──そう思って、学業や運動に明け暮れる日々を送っていた。
そんな大学生活に暗い影が射したのは、大学2年生になった20歳のとき。前年のスキーのインカレ(大学対抗戦)のころから感じていた左膝の痛みが、次第に悪化。運動選手に膝の痛みはつきもの、と軽く考えていたが、翌2004年の春になっても痛みはひかない。
「トレーニングのし過ぎで、膝に負担がかかっているのかな」
次第に膝が曲がりにくくなり、膝の裏にゴルフボールが挟まったような違和感は、やがてテニスボール大にまで膨らんだ。5月末ごろには、夜も眠れないほどの痛みと腫れに悩まされるようになった。
人工関節を入れたらもう運動はできない
大学の保健センターで経過を観察していたが、6月上旬に近くの総合病院を受診。レントゲンを撮影したところ、画像には明らかな病変が映っていた。
「画像を見るかぎり、骨肉腫の可能性が非常に高い。大きな病院へ行ってください」
整形外科医にそう勧められ、翌日、紹介状を持参して名古屋大学医学部付属病院を訪れた。MRIなどの検査結果は、「90パーセントの確率で骨肉腫」。だが、今利さんを本当に打ちのめしたのは、医師の次の言葉だった。
「手術して人工関節を付けることになると思う。そうしたら、もう運動はできなくなるよ」
体育学部では解剖学も学ぶため、骨肉腫について多少の知識がなかったわけではない。だが、「もう運動できない」という医師の言葉は、まさに青天の霹靂だった。
「何も考えられなかったですね。子供のころから運動をしてきて、体育教師をめざして中京大学に来たのに。『運動できない』というのが何よりショックで、先生の言っていることが理解できませんでした」
医師からの連絡で、翌日、両親が、横浜から名大病院に急行。「よく、1人で告知を受けたね」涙も枯れ果てた様子の娘を、母はそっとねぎらった。
横浜の実家に戻ると、その日のうちに親友5人が集まってくれた。気のおけない仲間と、横浜ベイブリッジまでドライブ。自宅に千羽鶴が届いたのは、翌日のことだ。色も不揃いで、ボロボロの千羽鶴。徹夜の突貫作業で作ったことは、一目瞭然だった。見栄えは悪いが、皆の気持ちだけは十分すぎるほど伝わってくる。その心遣いがうれしかった。
「運動できないなら左足を切断してください」
神奈川県立がんセンターで生検を受けて診断が確定し、抗がん剤治療がスタートしたのは、6月下旬のことだ。手術の前に腫瘍を小さくするため、メソトレキセート(*)とイホマイド(*)が投与された。治療中は通常の副作用のほか、予期性嘔吐にも苦しめられた。「これから抗がん剤を入れるんだ」と思うと、点滴のラインを入れられただけで嘔吐してしまう。そんな状態が3カ月間続いた。
10月1日に手術で腫瘍を切除。左膝に人工関節を入れる「人工膝関節置換術」を受けた。
実は、人工関節を入れるにあたっては、若干の紆余曲折がある。今利さんは当初、人工関節を使わず、左足を切断することを希望したという。「足を切断して義足にしたほうが、スポーツが続けられるから」というのが、その理由だった。
人工関節にはデメリットも少なくない。骨髄の中に金属製の人工関節を入れて接合するため、激しい運動により、ゆるみや痛みが生じやすい。また、人工関節の耐久年数は15年といわれているが、運動をすればするほど摩耗が進み、破損の原因にもなる。
「主治医の先生には、『人工関節を入れれば運動はできなくなる』と、言われました。たしかに、人工関節で運動している人はまだいないけれど、義足のアスリートはたくさんいる。今は義足の性能が向上して、運動のパフォーマンスもよくなっています。それならいっそのこと、切断して義足をつけたほうがいいと思ったんです」
いくら運動が好きとはいえ、妙齢の女性で、足の切断を迷わず即決できる人が、世の中にどれだけいるだろうか。今利さんの、筋金入りのアスリート魂を偲ばせるエピソードである。
むしろ、慌てたのは周囲だった。いさぎよすぎる娘を案じて、母は「足は切っちゃったら、もう生えてこないんだから」と、いさめた。主治医からも、「まず人工関節を入れて、様子をみてからにしましょう。不都合があったら切断することもできるから」と勧められ、「あなたにはもともと運動能力がある。小走りぐらいはできるかもしれないね」と励まされた。
「私はアスリートなのに、小走りっていわれてもなあ」とギャップを感じたものの、「挑戦してごらん」という主治医の言葉が、今利さんの心の琴線にふれた。
「私が前例を作ろう。人工関節を入れた、最初のアスリートになろう」
そんな思いが、胸の奥からふつふつとわいてきた。今利さんの心に、新たな目標という聖火がともった瞬間だった。
*メソトレキセート=一般名メトトレキサート
*イホマイド=一般名イホスファミド
術後の抗がん剤を拒否そして再発、肺転移
手術後は、異物を膝に入れたことからくる発熱や腫れ、痛みと熱感に悩まされた。4カ月の車椅子生活から手術を終えて立ち上がった瞬間、激痛が電流のように全身を貫いた。あまりの痛みに、思わず涙がこぼれた。
「人工関節の重さは2キロもあるので、歩くどころか足を持ち上げることさえ大変。高齢者の気持ちがよくわかりました」
術後の治療方針をめぐっても、今利さんは自分の意志を貫き通している。主治医は抗がん剤治療を勧めたが、今利さんはきっぱりと拒否した。術前に受けた治療のつらさが忘れられなかったためだ。
「術後の抗がん剤治療には、再発予防という意味もある。再発するかどうかもわからないのに、つらい治療を続けるのはもういやだ、と思いました。再発の怖さよりも、治療によって生きているのか死んでいるのかわからないような状態になって、自分がなくなっていくことのほうが怖かった。もし再発したら、そのときはちゃんと治療を受けますから──そう先生に伝えて、リハビリに専念することに決めたんです」
半年間のリハビリを経て、翌05年4月に大学に復学。再発と転移が判明したのは、それからまもなくのことだ。5月初旬の検査で肺のCTと足のレントゲンを撮影したところ、左足と左右の肺にくっきりと腫瘍が映っていた。
そして、豊田市と横浜市を往復しながらの治療が始まった。毎週水曜、授業後の夜に車を運転して横浜に帰り、木曜から入院。抗がん剤アドリアシン(*)を投与し、月曜日に大学のある豊田市に戻るという生活だ。
8月に大腿部の再発部位を手術。左肺の開胸手術は9月、右肺は翌06年2月。それぞれ授業の休み期間を利用し、大学生活への支障を最小限にした。最後の手術から、今年で5年半が経過し、幸い再発・転移もない。
*アドリアシン=一般名アドリアマイシン
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