進行性腎がんと闘いながら、看護師として母として、毎日を精いっぱい生きる
患者さんに勇気を与えられる存在になりたい
(看護師)
ふじもと いづみ
1962年生まれ。高校卒業後、看護師の道へ進む。2009年、ステージ3bの腎がんが判明し、右の腎臓と副腎を全摘。肺転移の治療のため、サイトカイン療法を行った後、現在は分子標的治療を継続中。「天職」と自認する看護師の仕事と趣味のテニスが治療の原動力となっている
「なぜ自分だけが、がんに……」と惨めな思いに苦しんだこともある。
しかし、多くの人との出会いを通して、病気を自分の運命として受け入れ、患者さんに勇気を与える存在になりたい、とまで思えるようになった。
がんを経験したことで、看護師としての姿勢も大きく変わった。
その人、藤本いづみさんを支えてきた出会いとは──。
腎がんと闘い続ける現役の看護師
瀟洒な町並みが続く大阪府郊外の住宅地。駅前で待っていると、ショートボブのウィッグが似合う、品の良い女性が現れた。女性の名は藤本いづみさん(48歳)。腎がんと闘いながら仕事を続ける、現役の看護師さんだ。
藤本さんが腎がんを発症したのは、46歳のとき。手術で右の腎臓と副腎を全摘したが、肺の多発転移が見つかり、サイトカイン療法(*)と分子標的薬(*)による治療を続けてきた。手足症候群(*)などの副作用に悩みながらも、仕事と趣味のテニスを心の支えとし、現在も闘病を続けている。
近年、腎がんはさまざまな治療法が開発され、患者にとっての選択肢も増えつつある。そんななか、藤本さんはどのようにがんと闘ってきたのか。
その軌跡をたどってみたい。
*サイトカイン療法=サイトカインは人体で働く生理活性物質の1種。サイトカイン療法はこれを使って免疫機能全体を強化する治療法
*分子標的薬=体内の特定の分子を標的にして狙い撃ちする薬
*手足症候群=抗がん剤の影響で手足の皮膚の細胞が障害され、手足に炎症や痛みが集中的に起こる副作用
46歳のとき腎がんを発症
愛媛県の高校を卒業後、大阪の箕面市立病院に就職。准看護師として働きながら高等看護学校に通い、23歳のときに看護師の免許を取得した。
「看護師という仕事は、人柄や言葉がけひとつで患者さんの症状を改善させることもできる、素晴らしい職業。看護師という仕事が本当に好きですね」
藤本さんが体調の変化に気づいたのは、09年4月下旬のことだ。右肋骨の下に違和感を覚え、まもなく息切れや疲労感、貧血などに悩まされるようになった。勤務先のクリニックで腹部エコー検査を受けたところ、右の腎臓に異常な影が映っていた。CTの結果は、「腫瘍の疑いあり」。勤務先の医師から、大学病院の受診を勧められた。
「大変なことになった、と思いました。看護師という職業柄、年に3回は血液検査を受けていたし、乳がんと子宮がんの検診も欠かさなかった。だから正直言うと、『自分はがんにならない』と思い込んでいたのです」
その日は職場を早退し、いつまでも流れ落ちる涙を抑えることができなかった。病気のことを、娘にどう伝えればいいのか──藤本さんは途方に暮れた。
「でも、娘は親が考える以上にしっかり者でした。看護師をめざしていた娘は、病気のことを打ち明けると、こう励ましてくれたんです。『ママ、今は"がん=死"じゃないから大丈夫』って。娘は楽観的で、感情を表に出さないタイプ。くよくよしがちな私とは正反対の性格で、その落ち着いた態度には本当に助けられました」
「先生、私、5年生きられる?」
6月、大学病院で造影CT検査を受けた。結果は「悪性」で、肺転移の疑いも否定できない状態だった。
「今は、腎臓のがんを取り除くことが最優先。今やるべき治療をきちんとやりましょう」
そう主治医に言われ、7月8日に手術を実施。右の腎臓と副腎を全摘し、下大静脈腫瘍塞栓(*)も摘出した。病理検査の結果は「腎淡明細胞がん」のステージ3b。肺にも、最大9ミリの多発転移があることがわかり、引き続き、インターフェロンによるサイトカイン療法を行うことになった。
病室で担当の若い医師から、肺に複数の転移があることを聞いたときのことだ。藤本さんは、こう尋ねた。
「先生、私、5年生きられる?」
すると、医師は困惑した様子で、黙り込んでしまった。
「その様子を見て、(ああ、5年生きるのは難しいんだな)と思ったんです。こんなとき、せめて『人の寿命は誰にもわかりませんよ』と言ってくれたら、どんなに楽だったか……」
医療者のささやかな言葉や表情ひとつで、患者の心は大きく揺れてしまう。そのことを、看護師でもある藤本さんは、身をもって知ることとなった。
術後は腸の動きが悪く、つらい日々が続いたが、うれしいことがなかったわけではない。
(なんとか、娘の誕生日の7月22日までには退院したい)
その思いが通じたのか、その前日にドレーン(*)が抜け、当日の外泊許可をもらうことができた。
〈ママが帰ってくるって聞いて、うれしくて泣いたの〉
娘から届いた1本のメールに、藤本さんは心を震わせた。
「娘は一見強そうに見えるけれど、本当はつらさに耐えていた。この子は本当に私の生きがいなんだ、と思ったのです。家族や周囲の支えがあるからこそ病気と闘うことができる、そう実感した出来事でした」
*下大静脈腫瘍塞栓=腎がんや肝がんなどが下大静脈(ヒトの体の中で1番大きな静脈で、下半身からの血液を集めて心臓に流れ込んでいる)の血管内に進行して血栓をつくり、塞いだ状態
*ドレーン=創傷部や、体内に貯留する血液や浸出液を体外へ排出するために用いられる管のこと
「私なんか生きている価値がない」
7月下旬から、週2回のインターフェロン治療がスタート。高熱やだるさ、腎機能・肝機能の低下など、さまざまな副作用に耐えながら治療を続けた。
しかし、12月のCT検査で、最大9ミリだった肺の腫瘍が11ミリに増大していることが判明。インターフェロン投与を週3回に増やしたが、このころから藤本さんは、情緒不安定に悩まされるようになる。
「インターフェロンで『がんを寛解(*)に持ち込めるかもしれない』と期待していたのに、病状は進行していた。つらい治療も結局は無駄なのではないか……。そんな虚しさに苦しめられました。(私なんか生きている価値がない)──惨めな思いでいっぱいになり、仕事中もよく泣いていました」
あるC型肝炎の患者さんと出会ったのは、そんな時期のことだ。その患者さんは、病状が進行して肝臓がんを発症していたが、「つらくないですか?」と聞く藤本さんに、こう答えた。
「できることは何でもしないとね。たとえ治療が効かなかったとしても、それはマイナスじゃない、ダメもとなんだから」
その言葉は、すっかり落ち込んでいた藤本さんの心に突き刺さった。
「ああ、その通りだ、今やっている治療は無駄ではないんだと。本当に励まされる思いでした」
*寛解=病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態
効かなかったインターフェロン
その出会いがきっかけとなり、藤本さんは外に目を向けるようになる。患者会「女性腎がんの会」に入会し、国立がん研究センター(現・国立がん研究センター)の「患者・市民パネル」にも登録した。
「待っているだけではだめだ。どうしたら病気を治していけるのかという方向に、気持ちを切り替えることができたのです」
だが、翌年2月のCT検査では、さらに衝撃的な結果が待っていた。肺の腫瘍がさらに13ミリに増大していたのだ。
診察室で主治医が見つめる電子カルテのCT画像。そこに写し出された腫瘍の大きさを見て、藤本さんは気分が悪くなった。「インターフェロンが効いていないね。別のサイトカインにするか、分子標的薬にするか、どちらか考えて決めてください」
主治医にそう言われ、ショックのあまり、その場で失神してしまった。普段は気丈な藤本さんが倒れたのを見て、さすがに主治医もあわてたのだろう。
「藤本さんは何も心配しなくていいよ。病気のことは我々に任せていいからね」
それまでは診察中もパソコンのデータに集中して視線を合わせることが少なかった主治医が、この出来事を境に、以前にも増して優しく接してくれるようになった。
分子標的薬による治療をスタート
10年4月から、インターロイキン2による2度目のサイトカイン療法が始まった。週3回、大学病院まで車を飛ばし、薬剤の点滴を受ける。そのたびに、発熱や頭痛、腎機能の低下や貧血などの副作用に悩まされた。
「点滴して2、3時間後には悪寒と発熱が襲ってくる。それで、熱が出る前に病院から急いで帰宅し、夕食の支度をしてから寝るようにしていました」
だが、この治療は残念ながら効果を上げることはなかった。6月のCT検査では、肺の腫瘍はなんと2センチにまで増大。もはやとるべき道は、分子標的治療しか残されていなかった。
しかし、藤本さんは分子標的薬を使うことには気が進まなかった。手足症候群の副作用により、大好きなテニスができなくなることが嫌だったのだ。悩みを打ち明けた藤本さんを、テニス友達の1人がこう諭した。
「そんなことを気にしてる場合じゃないでしょ。子供や仕事、趣味よりも、自分の治療を最優先するべきだよ。迷ったときは、勇気がいるほうを選ぼう」
なかには、熱心に代替療法を勧めてくれる友人もいた。だが、そうした方法に頼るよりも、自分にできる治療があるなら、まずそれに挑戦すべきではないか──藤本さんはついに、分子標的薬の治療を受けることを決意。腎がんの治療は、新たなステージを迎えた。
だが、意を決して臨んだ分子標的薬スーテントによる治療は、早々につまずくことになる。服用開始11日目に徐脈(*)症状が現れ、急きょ中止に。心筋症と甲状腺機能低下が判明し、別の分子標的薬であるネクサバールに切り替えることとなった。
*徐脈=不整脈の1種。成人の安静時心拍数は一般に毎分50~70回だが、30~40回を徐脈と定義される。脳に必要な血液を送ることができなくなるため、めまい、失神、ふらつきなどが生じる
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