がん医療の最前線で働く医師が、がんになって得たものとは
再発したら、そのときはそのとき。今は1日1日、ベストを尽くすだけ
植田健さん
泌尿器科医
うえだ たけし
1962年生まれ。89年千葉大学医学部卒業。98年医学博士号を取得。カナダのブリティッシュコロンビアキャンサーエージェンシーへ研究留学、千葉大学講師などを経て、現在千葉県がんセンター泌尿器科部長。06年3月44歳で急性リンパ性白血病を発症。骨髄移植などを経て、12月に退院。07年4月から復職し、今は毎日忙しく患者さんの診察にあたっている
がん医療の最前線で働く医師が皮肉にもがんに――
千葉県を代表するがん医療の拠点として、先進的な治療や緩和ケア、研究に取り組む千葉県がんセンター。ここに、自らもがんのサバイバーとして患者さんの治療に取り組む、1人の医師がいる。
同センターで泌尿器科部長を務める、植田健さん(47歳)だ。
植田さんは89年に千葉大学医学部を卒業し、98年に医学博士号を取得。カナダのブリティッシュコロンビアキャンサーエージェンシーへの研究留学、千葉大学講師などを経て、05年泌尿器科医長として千葉県がんセンターに着任した。
「発病前は10年単位で人生設計を考えていた」という植田さん。
「最初の10年は初期研修、大学院進学、留学を経験し、次の10年は専門医療機関に勤務」と、ほぼ“計画通り”に積み上げてきたそのキャリアは、まさに順風満帆というほかなかった。
専門医療機関の医師として、がん医療の最前線で闘う日々。そんな植田さんが、皮肉にも血液のがんである白血病を発症したのは、がんセンターに着任して1年もたたないころのことだった。
突然の発病・告知で「ああ、死ぬんだな」
「医者の不養生」という言葉に似合わず、植田さんは人一倍、健康には留意するほうだった。40代を迎えた頃から、がん検診もまめに受診し、万全の注意を払っていたという。
そんな植田さんに病の予兆が表れたのは、がんセンターに赴任して9カ月が経過した頃のこと。06年1月ごろから、肩こりや頭痛に悩まされるようになり、3月18日、深夜に足が痛み出して眠れなくなった。早朝6時過ぎに、勤務先のがんセンターを受診。
「おそらく風邪だろう。勤務先の病棟で2、3日入院させてもらおう」と、そのぐらいの軽い気持ちだったという。
たまたま当直をしていた腫瘍血液内科の医師が血液検査を行ったところ、白血球の異常な増殖が認められた。一般に正常値4000~1万個とされる白血球の値が、8万6000個まで上昇していたのだ。
「いずれわかることだから言いますけど……急性リンパ性白血病です」
当直の医師の言葉を聞いたとき、脳裏をよぎったのは歌手の故・本田美奈子さんの顔だった。
「ああ、死ぬんだな、と思いました。だって白血病といわれたら、普通、死ぬと思うでしょう」
がんの専門医も、一般の患者さんと同じように感じるんですね――と筆者が水を向けると、植田さんはこう続けた。
「医療が進歩しているといっても、急性リンパ性白血病患者の5年生存率は4割にすぎない。後で調べてわかったのですが、たとえ骨髄移植をして生き残ることができたとしても、免疫反応によってGVHD(*)という合併症が出るケースも少なくないですから」
医療の専門家である以上、病状が楽観できないという事実から目をそむけることはできない。無知の闇に逃げ込むことは許されず、現実の厳しさをただ直視するほかない。
治療のため、来院の3時間後には千葉大学病院に搬送された。
*GVHD=移植片対宿主病。造血幹細胞の同種移植や臓器移植などの治療に伴う合併症。ドナーの移植した骨髄に含まれる白血球が、患者さん自身の体を攻撃する免疫反応が起こり、皮膚や肝臓、消化管などにさまざまな症状が出る
本田美奈子さんの追悼番組を見てベッドの上で号泣
転院後すぐに骨髄穿刺を行い、抗がん剤の投与を開始された。身内にドナーがいなかったため、化学療法を行いながら、骨髄バンクからの骨髄移植のドナーが現れるのを待った。
寛解導入療法により、1回目はプレドニン(一般名プレドニゾロン)を投与。その後もキロサイド(一般名シタラビン)を中心とした併用療法やデカドロン(一般名デキサメタゾン)、アドリアシン(一般名ドキソルビシン)、エンドキサン(一般名シクロホスファミド)の併用療法など、6カ月間の化学療法が行われた。
治療中はさまざまな副作用に苦しめられた。吐き気や嘔吐、脱毛、全身の浮腫、発熱、手足のしびれ――。免疫力の低下で、無菌状態を作るアイソレーター(空気清浄機)に入ることもしばしばだった。
「白血球の値が下がるとやる気がなくなり、思考も停止してしまう。こうなると、ただひたすら嵐が通り過ぎるのを待つ……という感じでした」
あるとき、風呂の鏡に映った自分の姿を見て、植田さんは愕然とした。抗がん剤の副作用で、顔がパンパンに腫れ上がっていたのだ。ほどよく筋肉がついていたはずの手足はやせ細り、腹だけが餓鬼のように膨れている。「これは誰だ」――植田さんは落ち込んだ。
主治医や千葉大学病院のスタッフを信頼して、治療を続けるしかない。理性ではそうわかっていても、気持ちが落ち込むことも多かった。入院した瞬間から、自分はベルトコンベアに乗せられて1つの方向に向かっている。行き先はあらかじめ決まっていて、どうあがいても方向を変えることはできない――そんな無力感にさいなまれた。
折しもテレビでは、前年に白血病で急逝した歌手・本田美奈子さんの追悼番組がひんぱんに放映されていた。
「テレビ画面には、本田美奈子さんが臍帯血移植を受けたときの部屋の様子やアイソレーターなどが映し出されている。坊主頭にバンダナとマスクを付けた本田さんの姿をテレビで見た瞬間、泣けて泣けて……。テレビの中の光景が自分の闘病と重なって、本当にきつかったですね」
同じカテゴリーの最新記事
- 家族との時間を大切に今このときを生きている 脳腫瘍の中でも悪性度の高い神経膠腫に
- 子どもの誕生が治療中の励みに 潰瘍性大腸炎の定期検査で大腸がん見つかる
- 自分の病気を確定してくれた臨床検査技師を目指す 神経芽腫の晩期合併症と今も闘いながら
- 自分の体験をユーチューバーとして発信 末梢性T細胞リンパ腫に罹患して
- 死への意識は人生を豊かにしてくれた メイクトレーナーとして独立し波に乗ってきたとき乳がん
- 今を楽しんでストレスを減らすことが大事 難治性の多発性骨髄腫と向き合って
- がんになって優先順位がハッキリした 悪性リンパ腫寛解後、4人目を授かる
- 移住目的だったサウナ開設をパワーに乗り越える 心機一転直後に乳がん
- 「また1年生きることができた」と歳を取ることがうれしい 社会人1年目で発症した悪性リンパ腫
- 芸人を諦めてもYouTube(ユーチューブ)を頑張っていけばいつか夢は見つかる 類上皮血管内肉腫と類上皮肉腫を併発