あきらめたらあかん。あきらめなければ夢は叶う 抗がん剤治療をしながら、北京パラリンピックに挑んだ脳性まひアスリート・藤田真理子さん
1964年、大阪府生まれ。OL時代、障害者スポーツに目覚め、短距離選手として1987年の全国障害者スポーツ大会に初出場。1988年、パラリンピック(国際身体障害者スポーツ大会)ソウル大会日本代表となる。その後、水泳に転向。1999年、フェスピック(極東・南太平洋障害者スポーツ大会)大会優勝など、国内外で数々の大会を制し、34歳のとき投擲競技を始める。2000年、シドニーパラリンピックでは円盤投げ8位入賞。2008年、北京パラリンピック出場を果たした、女子障害者スポーツの第1人者である。
脳性まひをもつ藤田真理子さんは、障害者スポーツの世界に飛び込むなり頭角を現し、日本を代表する障害者アスリートとなる。そして2008年9月。日本女子投擲代表選手として北京パラリンピックという夢舞台に立った。1年前に見つかった乳がんの治療と競技生活を両立させながら、幾多の困難を乗り越え、その地にたどり着いた。「あきらめなければ、夢は叶います。がんと闘う人も勇気をもって」と輝く笑顔で私たちに語りかける。
3度目のパラリンピック出場夢の舞台で投げたで!!
北京パラリンピック会場にて。右が清田コーチ
2008年9月6日。「鳥の巣」の愛称で知られる北京国家体育場。北京オリンピックと同じ北京パラリンピックのメインスタジアムでは、世界148の国と地域から4000人の障害者アスリートが集う盛大な開会式が行われた。
日本からは162人が参加。そのなかに女子投擲競技代表の藤田真理子さん(脳性まひ)もいた。
「感動して、子どもみたいにはしゃぎました。ここに来れたで! みんな見てや!! って(笑)」
藤田さんは20年ものあいだ障害者スポーツの第一線で活躍し続けているベテラン・アスリート。パラリンピックの日本代表となるのも、ソウル、シドニーに続き、実に3度目である。しかし、今回はひときわ感慨深いものとなった。というのも、北京パラリンピックまでの道のりは、乳がんの闘病と並走だったからだ。
開会式の3日後、9月9日。藤田さんは女子円盤投げ予選に出場した。朝9時だというのに観覧席は満員。大観衆のなかで競技できるのは嬉しかった。これまでのパラリンピック会場では、開会式と閉会式だけ観客が入り、競技中は応援の身内だけだったからだ。
名前がコールされ、サークルに入った。
「この場所からこの光景を見たのは、日本人では室伏広治選手と私だけか……」
このとき藤田さんの体調は悪かった。抗がん剤治療は中止していたが、副作用の全身倦怠感が思いのほか長く残っていたのだ。
乳がんの治療を始めて以来、記録は17メートル台の自己ベストから2メートルもダウンしていた。トレーニングメニューを見直し、フォームを改善し、練習中は「つらさ」に触れない約束で、1日1日を真剣にとりくんできた。飛距離も少しずつ伸び、希望をつないでここに来たのだ。
1投目、2投目は15メートル台。この時点で9位。決勝に進めるのは上位8名。腕が思うように動かず、イメージどおりに投げることができない。3投目に17メートルを越えなければ予選落ちである。そして3投目。円盤は15メートルラインの手前で着地した。決勝進出にはならかった。
9月12日。女子砲丸投げ予選。2投目終了時でまたもや9位。1つ順位を上げて決勝に進むには6メートル74の記録が必要だった。しかし、3投目は6メートル49。わずかに及ばず藤田さんの北京は終わった。
同時に晴れ晴れした気持ちで夢が叶った喜びをかみしめた。
「ここに立って、投げたで!!」
円盤の美しさにはまり、短距離から投擲競技に転向
中学・高校時代にソフトボール部員だった藤田さんは、社会人になっても何かスポーツがしたい、と大阪市の長居陸上競技場に併設するスポーツセンターに出向いた。ここで、障害者スポーツと出合い、短距離走を始めたのが競技人生の始まりだ。
1987年に開催された全国障害者スポーツ大会の大阪代表に選ばれ、競技会デビュー戦で初優勝。その勢いで翌88年、ソウルパラリンピック出場を果たした。メダルこそ取れなかったものの、このとき藤田さんが得たものは大きかった。
「同じ障害者である各国のアスリートたちを間近で見て、競技ということを意識するようになりました。勝ちたいと思うようになったのです」
障害者スポーツで世界を目指すという明確な目的ができた藤田さんは、勧められて投擲競技に転向した。
投擲競技とは、砲丸投げ、円盤投げ、槍(やり)投げ、ハンマー投げをいう。藤田さんは円盤投げを初めて見た日のことが忘れられない。円盤が放物線を描いて飛び、彼方の地点に落ちる。なんてきれいに飛ぶんだろう。それが円盤の第一印象だった。
「こんなふうにきれいに投げたいと思って、はまってしまいました」
投擲競技、とくに円盤投げは強肩とパワーだけでは飛距離が伸びないという。うまくスピンをかけなければいくら馬力のある人でも飛ばないのだ。
円盤投げを始めたばかりの選手でも1週間あれば円盤を回すことができるそうだが、藤田さんの場合、左半身に麻痺があり、右にも少しだけある。
指の第1関節で円盤を挟むこともできない。その影響もあり、円盤を飛ばせるようになるまで半年くらいかかった。
「時間がかかったけれど、自分のものにできたという実感がありました。技術指導を受けてコツコツ練習を重ねていくことで記録は伸びるし、記録が伸びたらもっと頑張ろうって思う。試行錯誤を重ねてトレーニングを積み、その延長にシドニーパラリンピックがあったのです」
信頼するコーチと出会い、低迷期を脱したときに新たな敵
2000年に開催されたシドニーパラリンピックで藤田さんは再び世界の舞台に立ち、8位入賞という結果を残した。
このころから障害者スポーツのレベルアップは目を見張るものがあり、パラリンピックはもはや「福祉的なお祭り」ではなく、正真正銘の競技会になっていた。そんな変化のなか、アテネパラリンピックの出場を逃した藤田さんは、ヨーロッパ選手権でも惨敗する。
円盤投げは決勝に残るつもりだった。自費で欧州まで出かけたのだ。予選で3投、決勝で3投、6投は投げて帰ってこようと思っていたのに、予選落ち。ショックでしゃべれなくなり、スパイクを脱いだことも記憶にない。悔しくて泣いていたら、その傍らで、女子担当のコーチも泣いていた。その後、藤田さんの精神的な支えとなる清田和代さんである。
「もうあかんと思ったけれど、清田コーチは『帰って一緒にトレーニングをやりましょう』と言ってくれました。『あ、やらなくちゃいけないんだ』って、はっとしました」
それから清田さんと二人三脚のトレーニングが始まった。競技指導のみならず、メンタル面でのバックアップが得られたことが藤田さんには心強かった。
そして迎えた2006年のジャパンパラリンピック(国内最高峰の競技大会)。藤田さんはこの大会で自分が持つ日本記録を8年ぶりに更新した。翌2007年は北京パラリンピックの選手選考会となる競技会が多数行われる年。手ごたえをつかんだまさにそのとき、乳がんが見つかった。アスリートとしての闘いに、がんという難敵との闘いまでもが始まったのだ。
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