がん闘病10年で会得した「老いてはがんに従え」の境地
悪性リンパ腫と共生しながら水彩画の楽しさに目覚める
さとう あきら
昭和17年、東京生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業後、広告代理店、出版社などを経て、昭和46年、日本マクドナルドに入社、マーケティング部長。
昭和52年、日本ケンタッキー・フライド・チキンに転じ、常務、専務、代表取締役を歴任し、平成15年~19年、同社顧問。
その間、平成16年~17年、法政大学経営学部非常勤講師を務めた。
平成10年に悪性リンパ腫を発症し、現在も闘病中
最新のPET診断で見つかった悪性リンパ腫
84年、鷺宮店オープンセレモニーで(左から2人目)
代表取締役専務としての最後の、新入社員を前に
99年、仕事に復帰して約半年後、店舗を視察する
ファーストフード業界に詳しい人なら覚えているだろう。昭和52年に日本マクドナルドのマーケティング部長が、ライバルの日本ケンタッキー・フライド・チキン(日本KFC)のマーケティング部長に転出し、アッと驚くスカウト人事として、マスコミで話題になったことを。その人こそ、今号の「がんと生きる」の主人公、佐藤昂さんである。
平成10年5月、日本KFCの専務になっていた佐藤さんは、恒例の人間ドックに入った。そこは検査機関であり、CT(コンピュータ断層撮影)はできなかったが、エコー検査で腹部に影が発見された。検診医はある大学病院の内科医であった。佐藤さんに言わせれば「カンの良い先生」で、リンパ腫ではないかと疑って、自分の大学病院でCTを撮ってくれた。結果は「どうも怪しい。膵臓がんの可能性もある」ということで、他の大学病院の有名教授を紹介してもらった。
有名教授に精密検査をしてもらったところ、「膵臓がんではありません。おなかの真ん中に影がありますが、取ってみないと何とも言えません。悪性であるという根拠はありません。しばらくこのまま経過を見てみましょう」と言われた。佐藤さんはすぐに、その結果を人間ドックの検診医に報告した。検診医は首をかしげながら、「もし気になることがあったら、いつでも来てください」と、励ますように声を掛けてくれた。
佐藤さんは、検診医が首をかしげたことが気になったが、「良性なんだろう」と自らに言い聞かせ、腹部の影をしばらくそのままにしておいた。
ある日、経済誌を読んでいると、PET(ポジトロン断層撮影診断)について書かれた囲み記事が目に飛び込んできた。東北大学の加齢医学研究所がPETを導入し、アルツハイマーの研究に利用しているという記事であった。たまたま会社に東北大出身者がおり、聞いてみると、東芝に勤めている東北大の同期がPETを納入した、ということであった。佐藤さんはこれも何かの縁だと思い、すぐに加齢医学研究所の助教授に電話をし、PETによる検査を頼み込んだ。
「人間ドックで影が見つかってから、PETで検査を受けるまで、半年かかりました。その間、常にもやもやした気持ちでした。それで、がんではないことを確かめたいという一心で、仙台に行ったのです」
しかし、期待は裏切られた。佐藤さんを待っていたのは、「90パーセント以上の確率で悪性の腫瘍です」という非情な宣告であった。後で送られてきたPET画像のカラーコピーには、くっきりと黄色に光る腫瘍部分が写っていた。佐藤さんはそれが「夜空にただ1つ光り輝く金星のように鮮明であった」ことを忘れない。
手術後に聞かされた「本当の治療はこれから」
悪性腫瘍が確定して、ショックはなかったと言えば嘘になる。しかし、佐藤さんは「もやもやがはっきりした」と前向きに受け止め、腹腔鏡で腫瘍の摘出手術を受ける覚悟を決めた。一生懸命に検査をして、がんを見つけてくれた東北大学で手術をすることも考えたが、外科の教授から、「長くかかりますから、術後の治療を考えた場合、東京周辺の病院のほうがいいでしょう」と言われ、紹介してもらった慶応病院を訪ねた。
慶応病院では最初から検査をやり直した。CT、MRI(磁気共鳴画像)、ガリウムシンチなど、いろいろな検査を行った。明確な結果は出ず、担当医は「切り損になるかも知れませんが、いいですか」と念を押した。すでに覚悟を決めていたので、佐藤さんに迷いはなかった。平成11年の新年早々、生検を兼ねた腫瘍の摘出手術を受けた。
通常なら3時間ほどで終わる腹腔鏡手術が、6時間もかかった。翌日、担当医から、摘出した病変部は悪性リンパ腫であったことが告げられた。佐藤さんは、最初に人間ドックで影を見つけ、リンパ腫を疑ってくれた検査医と、PETで悪性腫瘍を見つけてくれた東北大学の医師のおかげで、早期に治療を受けることができたことに感謝した。
悪性リンパ腫は1カ所だったから、摘出手術を終えた佐藤さんは、すっかり治ったつもりでいた。実際、術後3日目には傷の痛みも軽くなり、点滴を外して廊下を歩けるようになった。しかし、佐藤さんが担当医の口から聞かされたのは、「これからが本当の治療の始まりですからね」という意外な言葉だった。その瞬間は、担当医が何を言っているのか、佐藤さんは理解できなかった。
「今になって思えば、最初に表に出てきた1個を摘出したに過ぎなかった、ということが理解できますが、そのときは、取ればそれで治ると考えていたんです」
その後、担当医から病理診断の結果と今後の治療方針を聞かされた。悪性リンパ腫は血液細胞のがんで全身病であり、1つの腫瘍を摘出して治したからといって、完治したわけではないこと、自分の低悪性度のリンパ腫は進行が遅いが、完治が難しく、再発した場合の生存期間は7~9年であることなどを告げられた。また、手術した場所の周辺に放射線照射を行えば、再発の可能性は50パーセントぐらいまで低下すると言われ、2月末から20回、合計30グレイの放射線を腹部に照射した。
路傍の草花の美しさに見入るようになった
佐藤さんは、悪性リンパ腫との闘いが、長期戦になるかも知れないと覚悟した。少しでも悪性リンパ腫のことを知ろうと、書店のがんコーナーを探した。当時、悪性リンパ腫について書かれた本は少なかったが、早期発見・早期治療を説くオーソドックスながん関連書をはじめ、慶応病院の医師、近藤誠さんの『患者よ、がんと闘うな』とか、ジャパン・ウェルネス理事長の竹中文良さんの『医者が癌にかかったとき』などを読んだ。
佐藤さんにとって幸いだったことは、会社に闘病に対する理解があったことだ。がんと判明したとき、専務として会社に迷惑をかけることを心配すると同時に、自分自身の人生の設計図が狂うことを懸念した。しかし、物事をはっきりさせずにはいられない性分の佐藤さんは、がんになったことはマイナスだが、マイナスでないようにしよう、がんとともに生きていくことも新しい人生だ、と気持ちを切り替え、会社のトップにも「告知」した。トップは「しっかり治してください」と励ましてくれた。
また、一家の大黒柱のがんは、家族にとっても不安であったに違いないが、全面的に支えてくれた。とくに、奥さんが治療についてすべて任せてくれたことに、佐藤さんは「やりやすかった」と感謝している。
手術後の放射線治療が功を奏したのか、術後1年間は平穏に過ぎ去った。会社にも普通に出勤し、マイペースで仕事をこなした。そんななかで、佐藤さんは自分の価値観が次第に変わっていくのを感じていた。会社では役職、昇進といったことが、まったく気にならずに仕事に邁進できるようになった。また、ストレスをストレスと思わず、仕事に没頭していたころには気がつかなかった、路傍の草花や木々の緑の美しさ、集団登校する小学生たちの可愛さに、足を止めて見入ったりするようになった。
しかし、そんな平穏な闘病の日々も、長続きはしなかった。手術から1年後の平成12年1月、CT検査を受けた。この1年間、検査を続けてきて、1度も再発は見つからなかった。その日も担当医の「とくに問題はないようです」という言葉を予想していた佐藤さんは、「右頸部に再発があります」という言葉に、一瞬、わが耳を疑った。医師に言われて、右頸部を触ってみると、たしかに小さなしこりがあり、再発は厳然たる事実であった。
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