単に治療だけの病院ではなく、患者が患者をサポートできる場に
「がん患者の、がん患者による、がん患者のための病院」の誕生に奔走した女性
なかがわ けい
昭和33年福岡県福岡市生まれ。
広島女学院大学で日本文学を専攻し、インテリアメーカーを経て10年間中学教師として勤務。結婚を機に退職し、専業主婦として実父の介護などを経験。
2000年8月に乳がんが発覚し、2年後に再発。
2003年1月に発足した乳がんの患者会『きらら』の世話人代表として幅広く活躍している。
2005年には子宮がん患者を対象とした患者会『うらら』も立ち上げた
患者にとって理想の病院
患者にとって理想の病院とは、まさに、こういう場所をいうのだろう。
ドクターや医療スタッフが診療科目の垣根を越え、一丸となって患者の治療に当たってくれる病院。患者の身体的な痛みだけでなく、心や経済面での痛みまでケアしてくれる病院。いつ訪れても、互いに支えあう仲間たちが笑顔で迎えてくれる病院――。
そんな“夢の病院”を自らの手で実現しようとしている、1人の乳がん患者がいる。広島県で乳がんの患者会「乳癌患者友の会『きらら』」を主宰する世話人代表の中川圭さんだ。
2008年早々にオープンを控えた“夢の病院”は、広島市内の繁華街に建設される9階建てのクリニック・モール。院内には乳腺科をはじめ、婦人科や心療内科、皮膚科や調剤薬局などが入居し、相互に連携して患者の治療に当たる。また、院内にはサロンも設けられ、患者同士の交流の場や「きらら」の活動拠点となる予定だ。
中川さんによれば、この病院の最大の特徴は「総合受付システム」にある。総合受付では「きらら」のメンバーがスタンバイし、同じ患者としての視点から、来院者の相談にきめ細かく対応していくという。
「病院に行くのが怖い、敷居が高いと思っている人たちに、気軽に相談してもらえたら……。この病院は、単に治療をするだけでなく、患者会のメンバーが患者さんをサポートできる場にしたい。もちろん、ここのクリニックの患者さんでなくてもかまいません。誰もが参加できる本当にオープンな環境で、医師や患者が一緒に活動できる――そんな場にしたいと思っているんです」
誰も相手にしてくれなかった
中川さんが乳がんを患ったのは7年前。術後の再発も経験し、ホルモン治療を続けながら、患者会の主宰者として活動を続けてきた。乳がん体験を通じて感じた、「こんな病院がほしい」という切なる願い。その7年越しの夢がかなうまでには、紆余曲折もあったようだ。
「最初にこの計画について話し始めた頃は、誰も相手にしてくれなかったんです。でも、今の勤務先の社長と出会い、何回もダメ出しされながら企画書を詰め、『これならなんとか運営できそうだね』というところまで持ってきた。企画書には、『こうあってほしい』という患者の願いが、いっぱいに詰め込まれている。その意味では、患者の声でできあがった病院なんです」
実際の事業運営は中川さんが勤務する企画会社に委託するものの、病院の事業企画は「きらら」自身が担当するという。まさに「がん患者の、がん患者による、がん患者のための病院」が誕生しようとしているのだ。現在の日本の医療界にあって、これは1つの奇跡といっても過言ではない。
では、1人の専業主婦だった中川さんを、夢の実現に導いた原動力とは何だったのか。中川さんは、乳がん経験を通じてどのように成長し、夢を実現していったのか。その軌跡をたどってみたい。
父の看取りの直後に乳がんに
姉と一緒にテレビを
小学校の運動会で
根っから明るく、向こう見ずなまでに行動的。中川さんの人となりを一言で表すなら、この表現がピッタリだろう。
「思ったらまず動くタイプ。それで成功もすれば失敗もする。わがままなんですね。言い出したら聞かない、というか」
大阪で10年間中学の国語教師として務めた後、結婚を機に退職。実家がある広島に戻り、3年間、父の介護も経験した。
乳がんが発覚したのは、父の臨終を看取り、「これからは自由にやりたいことをやろう」と思っていた矢先のことだった。2000年8月、自己検診で乳房にしこりを発見。それまで定期的にがん検診に通っていたA病院で細胞診を受けたところ、乳がんが見つかったのだった。
「細胞診を受けてからがんの宣告を受けるまでの数日間が、闘病生活の中で一番苦しい時期でしたね。『がん検診では大丈夫だったんだから、がんではないはず』と自分に言い聞かせる一方で、『確率的にいえば、がんでも不思議はないなあ』と思ったりして。もしがんだったとしてもガッカリしないように、自分を励ましていたんでしょうね」
がんの告知を受けたものの、中川さんはA病院で手術を受ける気にはならなかった。
「乳房を全摘しないと、あなたの命は保証しないよ。最近は何かといえば乳房温存手術だが、あれもけっこう危ないからね」
インターネットなどで収集した情報をみるかぎり、医師の言葉は「こんなことを言われたら要注意」という見本のように思えた。友人の勧めもあって、広島大学の原医研(原爆放射線医科学研究所)腫瘍外科を受診。科学的な根拠にもとづいて病状と治療法を説明するドクターの態度に好感をもち、ここで手術を受けることを決めた。
中川さんのがんは粘液性で、1センチにも満たないものだった。手術は乳房温存で行われ、リンパ節も郭清した。
「リンパ節への転移もありません。ほとんど再発の心配もないぐらい、低リスクのがんですよ」
医師の言葉に、ホッと胸をなでおろした。
前向きに生きていくために
趣味のバイクでツーリングに
術後は医師の勧めもあって、化学療法は行わず、放射線治療とノルバデックス(一般名タモキシフェン)によるホルモン治療を行った。
中川さんが「きらら」の前身となる勉強会を立ち上げたのは、手術後まもなくのことである。
「死と直面しながら前向きに生きていくためには、自分の病気を正しく理解し、正しい医療情報と知識を得なくてはいけない。勉強会を立ち上げたのも、そのことが身にしみたからなんです」
広島大学で乳がんの手術を受けた仲間たちと一緒に、毎月の情報交換を開始。医師の協力もとりつけ、本格的な勉強会がスタートした。
「たとえば夫婦生活のことなど、診察室ではなかなか聞きにくいですよね。そんなときは、『こういうことを先生に聞いてほしいのよ』と耳打ちしてもらい、勉強会の場で先生に投げかけてみる。誰かが口火を切ると、そこから端を発してワーッと話が盛り上がることもよくあります。そんな小さな勉強会を、私たちはとても大切にしているんです」
この活動が翌年、患者会「きらら」の発足につながるわけだが、そこは「向こう見ず」と自他ともに認める中川さんのこと。その脳裏には、従来の常識を覆す、ある壮大な構想がイメージを結びつつあった。
「終末期だけの緩和医療だけではなく、心のケアも含めて早い段階からトータルに緩和ケアを行うことが必要だ。最後の段階で患者を放り出すのではなく、最初から最後までトータルで診てくれるような病院ができないものか」
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