がんとの出会い。ホスピス医ががんから学んだもの
人生は出会い。自然の摂理に身を任せて生きる

取材・文:増山育子
発行:2007年8月
更新:2019年7月

  

恒藤暁さん

つねとう さとる
1959年大分県生まれ。
1985年筑波大学医学専門学群卒業。
1993年英国St.Christopher’s Hospisにて研修。
1995年淀川キリスト教病院ホスピス長、
2001年大阪大学大学院人間科学研究科助教授、
2006年10月より大阪大学大学院医学系研究科に開設された日本初の緩和医療学の講座の教授に就任。
日本緩和医療学会(常任理事)、日本ホスピス緩和ケア協会(幹事)ほか学会活動でも役職を務める。
おもな研究領域は、ホスピス・緩和ケア、がん疼痛治療など。


1通の手紙に導かれ、ホスピス医として歩みだす

会いたい人に手紙を出した。

その手紙に、「人生は出会いで決まるといいますが」という書き出しの返事がきた。それが麻酔科の研修医であった恒藤暁さんの人生を決定づけたといってもいい。

その「会いたい人」は、当時、日本で2番目にホスピス病棟を開設した淀川キリスト教病院の副院長、柏木哲夫さん(現在は淀川キリスト教病院名誉ホスピス長、金城学院大学学長)である。

1986年のこと。その年のペインクリニック学会のシンポジウムで、シンポジストに柏木さんの名前があるのを見つけた恒藤さんは、「学会でお会いして話を伺いたい」と手紙を出したのだった。

恒藤さんの願いはかなう。緩和ケアへの関心を語る恒藤さんに柏木さんは言う。「いっしょに働きませんか?」。

1985年に筑波大学医学専門学群を卒業した恒藤さんは、医学生のとき、実習先の病院の救急部門で麻酔科医が対応していたことから、そこで循環・呼吸管理を学ぼうと麻酔科医になることを選んだ。麻酔科にはがん患者の痛みの治療を受け持つペインクリニックという部署があり、そこで研鑽に励む日々のなかでの出来事だった。

こうして恒藤さんは、1987年、淀川キリスト教病院でホスピス医として1歩を踏み出すことになる。

その淀川キリスト教病院の職場検診で悪性リンパ腫が見つかったのは、働き出して8年目のことだった。

「ああ、自分の順番が来たんだなと、冷静に受け止めました」

この静かな心境の背景をみるためには、恒藤さんが医師を、そしてホスピス医を志したころにさかのぼってみるのがよさそうだ。

より深い人間理解を求めて医師を志す

写真:淀川キリスト教病院
恒藤さんが14年間在籍した淀川キリスト教病院
写真:淀川キリスト教病院ホスピス病棟

淀川キリスト教病院ホスピス病棟で、恒藤さんは多くの患者さんと出会ってきた

恒藤さんは大分県で生まれた。子どものころから「井の中の蛙になりたくない」と思い、英語も得意だった。

「世界に飛び出したい」という思いは高校生のときに留学という方法で達成できるかに見えた。が、留学による1年の差が大学受験に不利に働くことを心配した親と教師は猛反対。大学に入ってから留学したらいいと説得され、このときは留学をあきらめて大学を受験することにした。

「私は理系だったので工学部か理学部にしようと思っていたのですが、ふと、モノを対象にするよりは人間について知りたいと考えたんです。人間を理解するには医学部かな、と……まぁ、親元を離れたかった、という理由もあり(笑)、筑波大学を選びました」

「医学部で人間理解を」という恒藤さんの期待は、病気中心、臓器中心、技術中心の近代医学教育の前に縮んでいく。医学部にあっては変り種である。

「私の出発点は人間をより深く理解したい、ということ。医学部の専門課程の勉強は知識偏重で、私が期待していた人間理解からはほど遠いものでした」と恒藤さんは振り返る。

しかし、筑波大学時代にはその後の恒藤さんの人生に大きな影響を及ぼす、大切な出会いがあった。

ホスピスの全人的ケアに触れる

その1つは日本で初めてのホスピスを聖隷三方原病院に創設した原義雄さんとの出会いである。大学4年生のとき、原さんの講義を聞いて、はじめてホスピスの存在と「全人的医療」を知った。衝撃に突き動かされるようにして、春休みの1週間で聖隷三方原病院を見学した。

「ホスピスでは『愛にうらうちされた』というか、思いやりと配慮のあるこまやかなケアがなされていることに感動しました。それまでの私が知っている病院では、スタッフはあくまで仕事として働いている感じでしたから」

キリスト教の精神に基づいた病院ということもあって、愛と奉仕の精神がスタッフのケアに息づいていた。それは治らない人にしっかりとかかわる姿勢、情熱から伝わってきた。

たとえば、原さんをはじめ、スタッフは患者と話をするとき、ベッドサイドに座り込む。つまりベッドに横たわる患者と視線を水平にする、同じ目線で見る、聴く、ということだ。さらに、座り込むというのはある程度の時間をそこにとどまることを意味する。

聖隷三方原病院の見学では、医学生という立場とはいえ患者と接することが許された。恒藤さんは患者さんと話をして実感する。

「ホスピスは患者たちと人生について語りあうことができる場所なんだな……」

師であり家族であった人との出会いと別れ

もうひとつの出会いは何人かのクリスチャンと、土浦めぐみ教会の朝岡茂牧師である。

恒藤さんが聖書をひもとき、教会に通うようになったのは、留学先のカナダでクリスチャンの知り合いができたからだ。しかしそのときは「帰国したらもう教会に行くことはないだろうな」と思っていたという。

ところが、筑波大学で熱心なクリスチャンの学生に出会い、いっしょに土浦めぐみ教会に行くようになる。

土浦めぐみ教会は礼拝時には180名程が集まる大きな教会である。そこで牧師をしていたのが朝岡さんだった。

朝岡さんは、肺結核で苦しみ、人生をのろい、贈られた聖書を破って巻きタバコの紙に使ったという逸話の持ち主である。それがある日、ふと聖書を読んで信仰の道に入るや、牧師の仕事に命がけで取り組むようになったという。情熱家で厳しいところもあるが、人情家でもある朝岡さんを多くの人が慕っていた。恒藤さんもその1人だ。

その朝岡さんが直腸がんになった。教会関係者にがんに詳しい人がいなかったので、医学生だった恒藤さんが調べたり相談を受けたりしていたが、やがて朝岡さんは聖隷三方原病院のホスピスに入院し、1984年のクリスマスに亡くなる。

恒藤さんは言う。

「家族の一員のように朝岡先生の闘病を目の当たりにして、患者の家族の立場からホスピスの医療をみることができました。ホスピス医として働くようになったのは、まず、原先生との出会い、そして朝岡先生との出会い、それから直属の上司となる柏木先生との出会いです。この3人の先生に出会って、今、私はここにいるのです」


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