数々のスクープをものにしたジャーナリストががんで学んだもの
夫婦ダブルでがんを乗り越えた「相手への思いやり」
ふじわら ゆうこう
1936年東京・墨田区生まれ。
日本大学芸術学部映画学科卒。共立通信社を経てテレビ芸能番組のレポーターを務め、以後フリージャーナリストとして数々の芸能事件をスクープする。
著書に『芸能界入試問題集』、『スターへの階段を駆ける少女』、『江利チエミ物語 テネシーワルツが聴こえる』、『美智子皇后の70年 女人抄』など。
伝記小説、ドキュメンタリー作品の取材、執筆に取り組んでいる。
自らのがんを隠し献身的に妻を看護
数々の芸能スクープをものにし、女性週刊誌の黄金時代をリードし続けてきた1人のマスコミ人がいる。藤原佑好さん、71歳。『江利チエミ物語 テネシーワルツが聴こえる』、『美智子皇后の70年 女人抄』などの著書で知られるジャーナリストだ。
「胃がんの疑いが強い」と医師から告げられたのは、4年前。その直後に妻の結腸がんが発覚し、家族に「がん」のことを告白できないまま、献身的に看護を続けた。1年後に妻の退院を見届けると、その直後に吐血し、入れ替わるようにして入院。3a期の進行性胃がんと診断されたが、手術後は驚異的な回復力によって早期退院を果たした。今も仕事への情熱は衰えず、執筆活動を続けている。
「酒とタバコ、スクープ戦争に明け暮れて、ストレスを全部胃袋の中に抱えこんできた。だから、胃を取ってよかったのかもしれません(笑)。以前は酒も、最低でもボトル半分は空けていたんですが、今はコップにビール1杯で真っ赤になってしまう。タバコは控えなきゃと思っているんですが、少し吸い出したら旨くてね、これはやばいなあ、と。今、その誘惑と闘っている最中です」
そう、くだけた口調で語る藤原さん。だが言葉の端々には、芸能マスコミの第一線で走り続けてきた海千山千のジャーナリストの素顔がのぞく。「がんという難問に直面して、生きていることの味わいと貴さを学んだ」という藤原さん。苦闘を通じて得た気づきと喜びとは、一体何だったのか。
トップ記者として女性誌の全盛期を支える
大学卒業後、雑誌『映画芸術』の取材記者として活躍。映画界での人脈を買われて、テレビ芸能番組のレポーターも務めた。折しも昭和30年代、女性週刊誌が相次いで創刊され、芸能ジャーナリズム隆盛の嚆矢となった時代である。藤原さんは雑誌『女性自身』の芸能ニュース担当として引き抜かれ、トップ記者として女性誌の全盛期を支えることになる。
「女優の嵯峨三智子が、岡田真澄との婚約を破棄して行方不明になったことがあったんです。私は嵯峨三智子の居場所を知っていたので、『女性自身』から彼女の手記の代筆を頼まれたりして……。芸能人の手記が流行り始めた、最初のころですよね」
和田アキ子の子宮外妊娠から田宮次郎の猟銃自殺に至るまで、藤原さんは腕利きの記者としてトップニュースを次々にものにしてきた。反面、ストレスも並大抵のものではない。取材対象者や事務所からのクレームは日常茶飯事で、取材で追いかけていたタレントが行方不明になってしまったこともある。胃が縮むような思いを酒やタバコで紛らわせ、無我夢中でスクープを追いかけた。
「人間の噂話を人間がニュースとして流していく、そういう仕事ってストレスがたまるんですね。料亭に行っても料理に手をつけず、トイレに立つふりをして、たった今聞いた話を掌にメモするような生活でした。『すきあらば取材』と食事もろくにとらず、毎日タバコを50本は吸っていた。結局、ストレスは全部、胃に来ちゃったわけです」
胃に最初の異変が現れたのは、今から20年ほど前のことである。食欲不振で生唾が絶えず、病院で検査したところ「胃潰瘍」と診断された。
「胃潰瘍って治るんですか」
「生活を変えないと治りませんよ」
胃の痛みをごまかしながら連日の徹夜作業
だが、週刊誌のトップ記者が生活習慣を変えるのは容易なことではない。不規則な生活、暴飲暴食、酒とタバコ。「わかっちゃいるけどやめられない。ケンコウ(健康)よりもゲンコウ(原稿)だ」と、薬で胃の痛みをごまかしながら、連日の徹夜作業をこなした。
「胃潰瘍なんて、薬を飲んでいれば治っちゃうよ」
そう嘯いていた藤原さんの体に、さらなる異状の兆候が現れる。2001年の検査では便に出血が見られ、2年後の健康診断結果通知書には、「便ヘモグロビン(+)異常」「尿潜血(+)異常」のほか、血色色素、ヘマトクリット、血小板の項目に「異常」の赤丸印がついていた。藤原さんは医師にこう言った。
「がんでもかまいません。はっきり病名を言ってください」
「そこまで断定はできないけれど、再検査してみましょう」
医師の言葉は歯切れが悪かった。忙しさにかまけて、やっと再検査を受けたのは半年後のこと。結果は「がんの可能性あり」。この重大事を「かみさんに伝えなければ」と、藤原さんは思った。
「僕もがんだよ」なんて言えなくなっちゃった
妻がパート先で倒れた、という知らせを受けたのは、そんな矢先のことである。
6月に総合高津中央病院に入院して1カ月検査を行ったところ、「S字状結腸がん」と「子宮脱」を併発していることがわかった。
思いがけない妻のがん発覚、そして入院。7月に結腸がんと子宮脱の手術が行われ、入院期間は2カ月に及んだ。こうなると、もはや自分の病気どころではない。妻と2人暮らしだった藤原さんは、妻の看病と家での炊事・洗濯・掃除を一手に引き受けることになる。
「妻の発病で、思いがけず私のほうが看護役になっちゃったんですね。『僕もがんだよ』なんて、とてもじゃないけど言えなくなっちゃった」
それまで家事は妻に任せきりだった藤原さんにとって、初めての“主夫生活”は苦労の連続だった。だが、自分が家事をするようになり、妻のありがたみも今さらのように知った。
「洗濯なんか本当に大変ですよね、洗濯して干して、アイロンかけて。家事ってこんなに大変だったのか、ああ苦労かけちゃったなあ」
家族に対して無償の奉仕をしてきてくれた妻に、頭が下がる思いだった。
一方で、自分の病状が気にならなかったわけではない。病院からの帰りがけに気分が悪くなり、近くの駐車場で吐いたこともある。吐瀉物には血が混じっていた。
「でも、不思議と自分が『がん』という意識はなかったですね。かみさんの病状のほうに気がいっちゃって。もう無我夢中でしたから」
気がつくと、がんの疑いが浮上してから、1年が経っていた。
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