悪性リンパ腫を乗り越えた「記者魂」 読売新聞西部本社法務室長・広兼英生さん

取材・文:守田直樹
発行:2006年2月
更新:2013年9月

  

書くことで整理し、書くことで鼓舞してきた

広兼英生さん
広兼英生さん
(ひろがね ひでお)
読売新聞西部本社法務室長

治る可能性が何割くらいかを尋ねると、医師は一瞬、言葉につまり、そして静かに言った。

「治癒率(生き延びる可能性)は、5割以下とされます――」

医師からこう宣告され、ショックを受けない人はいないはずだ。病名は「胃原発悪性リンパ腫」。広兼英生さんは病気の深刻さを知った夜、突然の恐怖に襲われた。

「夜になって独りで考える時間ができたとき、恐怖がどっと出てくるんです。死ぬと思ったときの恐怖というのは理屈じゃなく、締めつけられるように怖い。死そのものが怖いんじゃなく、死というものが何なのかがわからない圧倒的な不安や恐怖なんです」

新聞記者としてすべての情報開示を求めた

写真:ノーベル賞フォーラムに実行委員として参加

元ソ連大統領ゴルバチョフ氏を招いたノーベル賞フォーラムに、実行委員として参加した

写真:応援に行った沖縄支局で

入院前は読売新聞西部本社の配信センター長として忙しく働いていた。写真は沖縄支局に応援に行ったときのもの現在は法務室長を務めている

悪性リンパ腫は、白血球の中のリンパ球ががん化する病気。リンパ節にがんが発生するタイプと、広兼さんのように胃などが原発病巣のものがある。血液がんの1種なのでほとんどが全身疾患になり、悪性度(がん増殖の速度)にも大きな差がある。広兼さんの場合、悪性度は中程度だったが、胃から腹腔内に広く転移しており、病期は2の2と診断された。

「後でアメリカの文献で調べると、1番成績のいい病院で生存率は4割、悪いところだと3割だったんです」

多少の配慮はあったにせよ、医師がきちんと数字まで出して告知したのは広兼さんが記者であったことと無縁ではない。

この当時は読売新聞西部本社の配信センター長。管理職なのにコラムや企画記事を自分で書くほうが好きな根っからの記者。そのため当初から病院側にすべての診療情報の開示を求め、記事にする可能性も告げていた。

じっくり粘り強く取材するのが得意なタイプで、水俣病をはじめとする公害問題や米軍基地問題、国鉄の民営化などは126回もの長期連載になっている。徹底的な調査報道を行うスタンスのためか、一見すると物腰穏やかな大学教授のような雰囲気だ。

それまで病気ひとつしたことのない広兼さんが、会社の健康診断で「胆石あり。要治療」と通知されたのが2001年5月。7月末に参議院選を控えており、「夏休みにでも行くか」と病院を受診するのを先延ばしにした。

小倉記念病院(北九州市)を訪れたのは3カ月後、真夏の太陽が照りつける8月だった。そこでがんを知らされ、病理検査などの結果の後に先の宣告となったのだ。

拡大手術ではなく、抗がん剤治療を選択

胃の悪性リンパ腫の標準治療は、切除できる部分を手術で取った後、抗がん剤や放射線治療を行うことになる。がんへの恐怖があった一方、たまたま休暇がもらえ、好きな読書に没頭できる喜びもあったという。

「あの本とあの本が読める、これは時間ができたぞっていう気持ちもありました。3食昼寝付き。ラッキーって」

8月21日、手術。開腹すると、胃の周辺に4~5センチに腫れたリンパ節が2つと、がんに侵された小さなリンパ節が十数個。しかも病巣は、大動脈を取り囲むように、十二指腸や膵臓の周囲にまで広がっている。検査による予測を上回る浸潤だった。

すべて除去するには胃はもちろん、十二指腸と膵臓の頭部も切る拡大手術が必要になる。このほうが再発の危険性は減るが、QOL(生活の質)の低下は免れないし、これまでと同じようにハードな記者の仕事を続けるのは不可能になる。

固形がんとは異なる悪性リンパ腫の場合、手術方針を内科医が主導するのが一般的だ。広兼さんに「治癒率5割以下」の宣告をした、悪性リンパ腫専門の内科部長・神尾昌則さんは外科医にこう進言した。

「抗がん剤でなんとかたたけると思います。広範な切除は、やめましょう」

手術室での議論の末、抗がん剤治療歴19年のキャリアから出た言葉で方針は決まった。胆のうと、2個のリンパ節のうち胃上部の比較的取りやすい部分にあったリンパ節だけを切除。多くのがん病巣は残したまま、お腹は閉じられた。

手術を終えてからが、病魔との本当の闘いとなる。同室者が寝静まった深夜。広兼さんは心の中で、死後10年近くになる父に向かって何度も叫んだ。

――父さん、助けて――

しかし、家族に対して弱気な姿は見せられない。東京にいる大学生の次男には、電話でこう話した。

「おれが死んでも保険金がある。当面、金の心配はない。予定通り国家試験に全力投球しろ」

受話器の向こうで次男が涙ぐむ気配を感じ、つられて目頭を熱くしたがぐっとこらえた。故郷に1人住む母親にも心配させまいと、がんであることは伏せておいた。

手術後、そんな母から1通の手紙が届く。

「手術は、痛かったろうね、苦しかったろうね。よう、頑張ったね……。力になれなくてごめんね、許してね……」

飾らない文面の一言ひとことに、子を想う母の心情が溢れていた。このときばかりは、涙を止めることができなかった。

偶然めぐり逢った悪性リンパ腫の専門医

広兼さんは昭和22年、山口県の日本海側の小さな町で生まれた。実家が火事に見舞われたり、他人の保証倒れで窮乏を極めていた。が、当時の時代状況もあり、つらさを感じたことはほとんど無いという。

中学3年になると、関東地方の工場への集団就職が決まっていた。当然のレールと受け入れていたある日、社会科の担任の高津先生に呼ばれ、こう言われた。

「お前は学校に行け」

さぞかし成績優秀だったのではなかろうか。

「いいえ、自慢じゃないですけど、中学卒業までに読んだ本は『十五少年漂流記』の最初の部分だけ。勉強への意欲はゼロで、早熟な恋愛ごっこにふけったりしてました。ただ、数学だけは、授業を眺めるだけで成績も良かったので、高津先生が声をかけて下さったのかも知れません」

こうして進学した高校をアルバイトで自活しながら卒業。テレビ局で働いていた際、無免許で社の取材車をぶつける大失態。そのときの映画課長だった岡田さんにこっぴどく叱られた後、1枚の名刺を手渡された。

「ここを頼って東京へ行け」

日ごろから大学進学の希望を口にしていたため、仕事と宿泊先まで世話してくれたのだ。

「このお二方がいなかったら今の僕はありません。……人には本当に恵まれました」

夜汽車に乗って単身、上京。紹介された丸の内の三菱重工で映写技師として働き始めた。ここで仕事をしているとき、公私ともに助力を得たのが、今の愛妻・紀美江さんだった。

「同じ職場の広報室にいて、面倒を見てもらったというか……まあ、いいじゃないですか」

と、広兼さんは照れて言う。

こうした強運が、がん治療においても発揮される。

もし、会社の検診でがんが発見されていれば、おそらくがん専門病院や大学病院に行っていたはずだ。胆石だったので軽い気持ちで近くの総合病院に行き、たまたまそこでリンパ腫専門医の神尾さんと出会い、特殊な治療を受けられた。神尾さんは、京大医学部を卒業後、イギリスに留学。そこから悪性リンパ腫を専門に研究を続けていた医師だった。

神尾さんの研究熱心さを表すこんなエピソードがある。お見合いの席で相手の女性が、「趣味は何ですか」と聞くと、神尾さんは真面目にこう答えた。

「顕微鏡をのぞくことです」

その女性もさすがに呆れたようだったが、後に妻となるとはそのとき思いもよらなかったに違いない。 広兼さんも、神尾さんの凄さを次第に知ることとなる。

「神尾ドクターは900本くらい論文を研究し、国内では非主流だったある治療を信念を持って実践していたんです。僕と同じ、我が道を行くというか、マニアックな人だから相性も良かったんでしょう」

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