前立腺がん、食道がん、胃がん、直腸がんの多重がんを乗り越えた食生活革命 レストラン「アラスカ」会長・望月豊さん
望月豊さん
(もちづき ゆたか)
レストラン「アラスカ」会長
大阪・中之島のオフィス街のど真ん中にある老舗のレストラン「アラスカ」。その会長である望月豊さん(77歳)は3年前、前立腺がんになった。しかし、もっと大変だったのは、それから1年も経たないうちに食道がん、胃がん、直腸がんという多重がんに襲われたことだ。この一大事を彼は食生活を一変させることで乗り切ろうと考えた。肉中心から野菜と魚中心の食生活にだ。効果はまもなく表れた。
がんをきっかけに野菜と魚中心の食生活に変えた
大阪・中之島のオフィス街のど真ん中に、朝日新聞社ビルがある。その最上階に、昭和3年(1928)から続く老舗のレストラン「アラスカ」本店がある。
フレンチでもイタリアンでもない、日本人好みの西洋料理でもてなす。名物はエスカルゴやローストビーフ、コンソメなどだが、何を食べてもきっとおいしいはず。滅多に行かない私でも、この店の子牛のカツレツやオムレツの味を覚えている。並みの「おいしい店」とは、ひと味違うのだ。
格調高い店には、かつて各界で活躍する著名人たちが頻繁に訪れ、谷崎潤一郎の小説『細雪』の中にも、こう登場している。
〈ちゃうど時分時なので、アラスカへ誘ふ気なのだと察した貞之助…〉
会長の望月豊さん(77歳)は、42年前、父からアラスカを継いだ。裕福な常得意を主な客層とする商売は、お客の高齢化とともに翳りを見せ始める。高度経済成長の波に乗って支店を増やしたものの、いい時期は長くは続かず、借金が膨らんだ。阪神・淡路大震災後、自宅を売り、いくつかの支店を閉めた。
会社の行く末を案じていた3年前、望月さんは前立腺がんと診断された。その術後、1年も経たないうちに食道、胃、直腸にがんが見つかる。多重がんだ。胃と直腸の一部を切除した。食道がんは小さかったので、様子をみることにした。
術後、望月さんは、生き抜くために、医師のアドバイスで食生活を一変させた、という。その後、食道がんは次第に小さくなっていき、ついに消えてしまった。望月さんはいったい何を食べているのか。
ひもじさを味わった戦時中
望月さんはアラスカが開店の年に生まれた。父・豊作さんは当時支配人で、後に社長になる。大阪で初めての、ナイフとフォークで食べる洋食屋として、評判になった。大阪モダニズムを象徴する店で、食通たちが毎晩、高級外車でやってきた。
望月さんは小学生低学年のころから、日曜日は午前4時に起こされて、父と市場へ魚を仕入れに行っていた。
「僕は、帰りに江戸前のにぎり寿司が食べられるのがうれしかったんですよ」
陽気な笑顔で、望月さんが言う。まっすぐに背筋の伸びた長身を、仕立てのいいスーツが包んでいる。初対面の相手にも、気取りがない。せっかちな大阪人らしく、どんな質問にもぱっぱと早口で答えていく。威勢のよさが、往年のプロ野球スターの金田正一さんを彷彿させる。
「人に頭を下げるのは好きやない」のに、18歳の時、母に泣きつかれ、跡を継ぐことにした、という。
第2次世界大戦中は、高級レストランの御曹司もまた、ひもじさを抱えていた。
開戦の年に中学1年生で親元を離れて上京し、全寮制の「自由学園中等科」に入学した。甘やかせて育ててはいけないと、両親は思ったらしい。寮生として、薪で御飯を炊き、井戸水を汲んで風呂を沸かす生活を送る。中学3年生になると学徒動員がかかり、休暇も授業もなくなった。校内に特設された、零戦の部品を作る工場で働いた。
同時期、アラスカの支店が「高級飲食店閉鎖令」によって、次々と閉鎖されていく。
1945年になると、寮生活では、食べ物らしいものがなくなった。望月さんらは、岩塩を砕き、バケツで塩水を作り、それを鍋で沸かして、雑草を煮て食べた。米の代わりに、大豆の絞りかすをふやかして食べた。どんな味がしたのだろうか?
「忘れたよ、そんなもん(笑)。食えたもんじゃないよ。みんな栄養失調だった。アラスカの肉料理が食いたいなんて、思いもしませんでしたよ。それどころやない。工場では徹夜で仕事をすることもあったし、毎日近くで空襲があったし」
たびたび機銃掃射に遭った。操縦士の顔が見えるほど、敵機が高度を下げて迫ってくる。校庭に掘った穴に、ヘルメットを被って駆け込んだ。薬莢がパラパラと降ってきた、という。寮に干していたシーツは穴だらけにされた。女子部の生徒約10人が、動員先の工場の爆撃で命を落とした。
望月さんは18歳になったら、海軍に入隊するつもりだった。ガリガリに痩せていたものの、負けん気の強い、血気盛んな少年だったのだ。だが、入隊の目前、終戦になった。
ホテル・リッツでボーイ修行
戦後、アラスカの各支店は占領軍に接収され、将校クラブになった。米軍曹の指示で、アラスカのコックたちが料理を作る。望月さんは、米兵がガスレンジを持ち込んで、パンをいとも簡単に焼くのにびっくりした。湯で戻す乾燥野菜も初めて見た。
「ああ、戦争に負けるはずだなぁと思った。僕はまだ18の子どもでしたから、桃の缶詰やチョコレートをもらいました。うまかったなぁ、あれ(笑)。数年間、甘いものなんて食べていなかったから。寮に持って帰って、みんなで分けて食べましたよ」
大阪本店だけは、新聞社のビルにあったため、占領をまぬがれた。闇米で一般人がよく捕まった時代だ。警察の摘発を受けないよう、(株)北洋と社名を変え、軽食店として細々と営業を続けた。たとえば、新聞社のパーティで出す食事は、「料理は外から持ち込まれた。うちはお茶だけ」と言い訳できるよう、ハンバーグと御飯を弁当箱に詰めて出していた、という。
1948年に自由学園を卒業し、望月さんはアラスカに入社した。その後、「高級飲食店閉鎖令」が解除され、アラスカは東京や各地のゴルフ場に支店を増やしていく。
1957年、洋食の本場でサービスの仕方やテーブルセッティングなどを学ぼうと、29歳の望月さんは、ひとり欧米へ5カ月間の視察の旅に出た。1ドル360円の時代、どこへ行っても日本人は珍しがられた。シアトルの親戚の子どもに1カ月間英語を習い、渡欧して、フランスのホテル・リッツでボーイをした。
「僕は水ばっかり注いでいましたけど(笑)。向こうのボーイたちのサービスが実に上手です。料理の勧め方がね。だって、彼らの基本給は10パーセントぐらいで、あとはチップで生活しているから。いいサービスをしたら、100ドル札を1枚くれるお客さんも、当時のリッツには来ていました。でも、欧米の料理はおおむね雑なもんです。甘いか辛いか、どっちかですよ。その時分から、うちの料理のほうが数段上でしたね。コンソメなんか、1週間ぐらいガスで炊きっぱなし。スープが旨かったら、そのレストランはだいたい全部、旨いですよ」
アラスカの特色は、初代料理長が独自に作り上げた、各国の料理のアラカルトが充実していることだ。家庭料理もあれば、田舎料理もある。インドネシア料理、中国料理まで取り入れた「アラスカ風」だ。同じ洋食系でも、「フランス料理のフルコース」を出すレストランとは、趣向が全く違う。昭和30~40年代は、ランチタイムでも、30品ものアラカルトを味わうことができ、本店だけでも20人のコックが働いていた。
だが昭和50年代の大型不況で、常連だった企業の幹部たちが、会食や接待での利用を控えるようになる。値段が高くてもいい、という客も少なくなり、手の込んだ料理の注文が減った。バブルの時代に巻き返しを図るものの、値段の手頃なレストランの増加で苦戦する。さらに阪神・淡路大震災は、関西だけで何兆円という被害をもたらした。アラスカの経営も逼迫していった。
社員のために会社だけは存続させなければと、望月さんは、社員寮や保養所、父親が遺した自宅、老後を夫婦でのんびり暮らすつもりだったハワイの別荘、個人財産に至るまで、すべてを処分した。
利益のために、削れる出費はすべて削った。たとえば、新入社員の採用を凍結し、調理師学校への挨拶回りも止めた。宣伝もしない。生き残るために、未来への投資をすべて手控えたのだ。メディアでの“露出”が減れば、知名度は下がる。
結果的に、ブランド力は下降線を描いていった。
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