大手広告会社営業部長、死の淵を潜り抜けた472日間の白血病闘病

取材・文:吉田燿子
発行:2005年11月
更新:2013年9月

  

奇跡は待っていても起こらない。自ら道を切り開いた不屈のパワー

葬式の最中に「すぐ会社へ戻って来い」

吉田寿哉さん
吉田寿哉さん
(よしだ としや
43歳 東京都中央区)
広告会社部長

98年、東京ドームで『メリルリンチ スーパードームシリーズ〈日米野球〉』が開催された。
大リーグを代表する強打者サミー・ソーサらが参加し、イチローや松井稼頭央が世界へ飛躍するきっかけともなったこの球宴は、野球ファンのみならず多くの日本人を釘付けにした。だが、その成功の陰で奔走するひとりの広告マンがいたことを知る人は少ない。

大手広告会社に勤める吉田寿哉さん(43歳)は、当時メリルリンチ日本証券を担当する営業マンだった。クライアントに日米野球のスポンサーをセールスしたことから、球宴開催に深く関わることとなった吉田さんだが、現場では難問が山積みだった。始球式の人選から着用するジャンパーのデザインに至るまで、日米両国の関係者の意見がことごとく食いちがう。その渦中で交渉の陣頭指揮をとったのが、語学に堪能な吉田さんだった。

「ちょうどその頃、祖母の葬儀で会社を休んだことがあるんです。ところが、葬式の最中に携帯電話がバンバン鳴るんですね。しかたなく電話に出ると、上司が『お前、今何をやってるんだ。納骨? 納骨なら30分ぐらいで終わるから、1時間後に会社に戻って来い!』」
吉田さんの存在なくしては球宴成功がいかにむずかしかったかを物語るエピソードである。

毎日夜遅くまで残業する仕事人間

発病前の順風満帆の頃の吉田さん(オーストラリアのシドニーにて)
発病前の順風満帆の頃の吉田さん
(オーストラリアのシドニーにて)

筆者が汐留の超高層ビルにある本社の1室で吉田さんとお会いしたのは、猛暑も一段落した9月下旬のことだった。短くカットした髪と痩身にわずかに闘病の名残がうかがえるものの、その口ぶりには活力が感じられた。広告マンらしい物なれた様子と、死の淵をくぐり抜けた人だけが持つ静謐が同居している、そんな不思議な印象を受けた。

03年夏、急性骨髄性白血病を発症。抗がん剤治療をしたが再発したため、臍帯血移植に踏み切った。移植にともなう壮絶な苦しみを乗り越えて、今年5月に職場に復帰。現在は以前のように、元気に仕事をしている。

吉田さんの経歴は華やかだ。一橋大学商学部卒業後、大手広告会社に入社。入社5年目のとき、厳しい社内選考を勝ち抜いてアメリカ国際経営大学院(通称:サンダーバード)に企業留学し、MBAも取得した。その後13年間、広告営業の第一線で活躍。その語学力と国際センスを生かして主に外資系クライアントを担当し、01年末には同期で最も早く営業部長に昇進している。

「本当に年がら年中、仕事に追われているという感じでしたね。毎日夜遅くまで残業したり、クライアントや仲間と飲みに行ったり。生活の8割から9割は仕事に捧げていました。会社も広告の仕事も大好きでしたから」
そんな吉田さんも転機を迎えようとしていた。41歳で結婚。ほどなくして妻が妊娠していることがわかった。まさに順風満帆であるかにみえた矢先、突然、病魔が襲う。結婚式から半年後の夏のことだった。

ポジティヴ・シンキングだ!

地固め療法を終え、寛解になった直後に子供が誕生。奥さんの順子さんと
地固め療法を終え、寛解になった直後に
子供が誕生。奥さんの順子さんと

吉田さんが異変に気づいたのは、03年8月のことである。
ジムでトレーニング中に貧血で動けなくなる、髭そりで傷つけた傷口から血が止まらなくなる、といったことが重なった。お盆を過ぎた頃からは、38度の高熱が続く。これはただ事ではない――会社の健康ルームで健康診断を受けた吉田さんに、医師はこう告げた。

「吉田さん、血液が大変な状況です。すぐに広尾の日赤病院へ行ってください」
日赤病院で胸骨への骨髄穿刺を行ったところ、病名はその日のうちに判明した。
急性骨髄性白血病。
目の前が真っ白になった。

「自分が白血病であるということが何を意味するのか、それを考える気力さえなかったですね」と吉田さん。夏目雅子やアンディ・フグなど、白血病で死んだ有名人のことが頭をよぎる。「俺も死ぬのかなあ」という思いが脳裏を駆け巡った。一緒に告知を聞いた妊娠中の妻が隣で号泣している。ただ無性に、お腹の赤ん坊に会いたいと思った。

だが、ここでひるんではいられない。これまでも、どんな難題が目の前にあろうと、それを乗り越えて生きてきた。
「くそぅ、ポジティヴ・シンキングだ。生まれてくる子供を父なし子にするわけにはいかない。絶対に生き抜くぞ!」
自分にそう言い聞かせた。

入院と同時に、日赤病院で抗がん剤治療が始まった。
抗がん剤で異常に増殖した白血球を減らし、合併症予防のため2週間ほど無菌室で過ごす。この約1カ月の寛解導入療法を1クール行った後、地固め療法を4クール繰り返した。
頭痛や便秘などの強い副作用に悩まされながらも、5カ月間の抗がん剤治療に耐え、翌年1月下旬に退院。

その翌日、まるで申し合わせたかのように待望の赤ちゃんが誕生した。血にまみれてシワシワの顔をしたわが子を見て、吉田さんはこれまで味わったことがないほどの感動に震えた。
だが命の誕生を目の当たりにしたことは、闘病中の吉田さんにある複雑な感慨ももたらした。当時の心境を、吉田さんは後にこう振り返る。

「妻のお腹が日に日に大きくなり、子供が生まれた途端にお腹はペタンコになって、生まれた子がどんどん大きくなっていく。かたや自分はといえば、1年半の間パジャマを着て寝ているだけで、何も変わらない。そのコントラストが象徴的でしたね。これはもしかすると、リインカーネーション(輪廻転生)というやつかもしれない。僕の命と引き換えに子供が生まれるのではないか――そんな考えが頭をよぎって、実は少し怖かったんです」


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