会社人間からシルクロードの旅人へ
がんに背中を押されて始めた夢を追う新しい人生・大竹錠二さん
大竹錠二さん
(東京都文京区在住)
おおたけ じょうじ
1940年、大阪生まれ。
東芝で商品企画部長を務めているときに検診で胃がんを発見。手術で胃の3分の2を切除した。
その後、職場復帰するが、子供のころからの夢であったシルクロードへの旅を実現するため定年前に退職。
以来、アジア・中国を中心に数10カ国を回り、紀行文と写真をまとめた本を2冊、自費出版した。
シルクロードへの憧れ
ウルムチ・南山牧場
神田神保町で過ごした少年時代のころから、大竹錠二さんはシルクロードの旅に憧れを抱いていた。それを決定づけたのは高校生のときに読んだ朝日新聞の「ロンドン―東京5万キロ」という記事だった。記者2人がロンドンから東京までユーラシア大陸を通って車で走り、途中の風物を現地から送稿して話題になった連載記事である。
いつか自分もシルクロードを旅してみたい――。以来、大竹さんの胸のなかではその想いがどんどんふくらんでいった。それは大竹さんにとって夢ともいえるものだった。だが大学を卒業し、東芝に入社してからは、現実問題としてその夢を実現する時間的余裕などどこにもなかった。企業戦士として働きづめの日々が続いたのである。ことに商品企画部長という要職についてからは、多忙を極めた。年間約100種類の家電商品を企画する商品企画部は会社のなかでも花形部門の1つであり、激務ではあったがそれだけにやりがいもあった。
それでも大竹さんは夢を忘れたわけではなかった。浜松町にある会社のビルの窓から東京湾に沈む夕日を見ていると、早く退職して旅をしたいという気持ちがわき上がってくることもあった。ただ、責任ある地位で重要な仕事をし、充実した日々を送っている身には、なかなかそのきっかけがつかめなかったのである。
そんな大竹さんが夢を実現するきっかけは意外なところからやってきた。がんが大竹さんの背中をそっと押したのだ。
1992年11月、大竹さんは社内の医務室で胃のX線検査を受けた。健康診断は毎年受けていたが、胃のX線はそれが初めてだった。この年、入社して健診を担当していた庶務の女子社員は、大竹さんもよく知っている厚生担当課長の娘だった。その女子社員から熱心に勧められたため、それまで受けたことのなかった胃の検診を初めて受ける気になったのである。
早期発見につながった2つの“もし”
無錫・恵山公園の四阿
パキスタン ナンガーバルバット8125m
検査の結果、胃壁の一部にびらん(ただれ)が見つかり、医務室の医師から「念のため胃カメラで再検査しましょう」と言われた。そして12月、胃カメラのモニターを見ながら医師は「あれあれ、何かできているぞ」と驚いたような声をあげた。
「仕事は忙しく酒も飲んでいましたが、大病をしたことはなく健康には自信がありました。胃にびらんがあるといってもなんの症状もありませんでしたからね。ただ母も妹もがんで亡くなっていましたので、いつかは自分もがんになるのかなと思うことはありました。だから先生が変な声を出したときは不安になりましたよ」
翌1993年1月4日、仕事始めの日の朝、大竹さんは医務室に呼ばれ、胃カメラによる検査の結果を告げられた。
早期の胃がんだった。
じつは胃カメラによる検査を受けたときには、びらんはすっかりなくなっていた。おそらく胃が少し荒れていた程度のことだったのだろう。もし健診の担当社員が知り合いの娘でなかったら、きっと大竹さんは胃の検査を受けなかっただろう。もしX線検査のときびらんがなかったら、胃カメラの検査を受けることもなかっただろう。2つの“もし”が重なっての早期発見だった。
「胃を全摘することになるかもしれません。でも今は胃がんも完治する病気で、胃を全部取っても元気に社会復帰している人は大勢います」
医師がそう説明する声を聞きながら大竹さんは一瞬、目の前が真っ暗になるのを感じた。自分のオフィスに戻る前に1階まで降り、ロビーにある公衆電話で妻の悦子さんに結果を報告した。「大丈夫よ」という悦子さんが、一所懸命明るい声を出そうとしているのが電話口でも分かった。
23階にあるオフィスに戻ると、事業部長が「どうだった、結果は」と声をかけてきた。「やはりがんでした」「そうか、それじゃまず治療に専念することだね」そんな会話を交わしたのを覚えている。周りの部下たちは腫れものに触るような態度だった。
「なんだか目の前に半透明の幕が下りてきて、自分だけがシェルターのなかで別の世界にいるような感じでした」
この先生なら任せられる
インドで出会った少年と握手をする大竹さん
しかしもともと楽観的な性格で、何事もいいほうに考える大竹さんは、しばらくしたら気を取り直していた。
「先生もああいっていたし、手術をすれば治るだろう」
仕事に没頭することで、大竹さんは不安をかき消し、病気のことを忘れることができた。
数日後、大竹さんは悦子さんとともに港区白金にある北里研究所病院を訪れた。検査部に勤務する従兄があらかじめ医師などに連絡し、朝一番で診察を受けられるように手配しておいてくれていた。ここで再び胃カメラによる検査を受けた。診断はやはりがんだった。担当のY医師は初期のがんで、部位や大きさから考え全摘はしないですみそうなこと、転移もしていない可能性が高いことなどを穏やかな口調でていねいに分かりやすく説明してくれたうえで、最後に「1週間後以降ならいつでも手術できます。それまでは普段通りの生活をなさってけっこうです」と付け加えた。
「お酒は飲んで構いませんか」
ちょっと遠慮気味に大竹さんが尋ねると、
「構いませんよ」
という答えが返ってきた。
「一瞬、もしかしたらオレは死ぬのかな、と思いました。だって普通は手術前に酒を飲んでいいはずないでしょう。でもしばらくして、酒を飲んでいいというくらいなのだから、本当に軽いのだろうと思い直しました。Y先生はいうことが的確で分かりやすいし、いい加減なことをいう人じゃない。だからこの一言で暗澹とした気分が晴れ、救われた想いがしました。このときからこの先生を信頼しよう、この先生なら任せて大丈夫だと思うようになったのです」
ただし手術の予定は1カ月先にした。1月には商品戦略会議が立て続けに三つ行われることになっていた。この会議ではずらりと並ぶ役員に向かい、大竹さんが次年度の商品戦略を2時間くらいかけて説明するのが通例になっている。「この仕事だけは人に任せるわけにいかない」ので、手術はその大仕事を終えてからということにしたのだ。
無言で過ごした真冬の諏訪湖
暖房器具の商品戦略会議は工場のある長野県の松本で開かれた。会議があるのは金曜日だったので、大竹さんは会議が終わったあと悦子さんと合流し、浅間温泉と諏訪温泉に泊まった。観光客の姿もまばらな冬の諏訪湖で2人は遊覧船に乗った。雪が降ってきて、一段と冷え込む日だった。
「これが最後になるのかなという思いはありました。妻もきっと不安な気持ちでいっぱいだったでしょう。だから2人ともほとんど無言でしたよ」
松本での会議で大竹さんは関連会社の部長と同席した。胃の調子が悪いので、帰京したら検査を受けるとその部長は話していた。あとでその人も胃がんで入院していると聞き、大竹さんは見舞いに行ったことがある。だが残念ながらその人は手術後しばらくして亡くなった。胃の痛みが続くのを酒で紛らしていたため、発見が遅くなったのだとあとから聞いた。そういうこともあってこのときの松本行きと悦子さんとの旅行は「忘れがたい思い出になった」と大竹さんは言う。
手術は1月29日、約5時間かけて行われた。Y医師はできる限り胃を残すために、少しずつ何度も切除した細胞をその都度検査部に運ばせて、がん細胞の有無を調べさせた。あとでそのことを知り、大竹さんのY医師への信頼度はますます高くなった。手術は無事成功。「ベッドの友達にならないように」というY医師の言葉にしたがい、大竹さんは術後3日目からは点滴台を引きながら病院内の廊下を歩いてリハビリに努めた。
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