今、二つ目のいのちを伸びやかに生きている
がんになって初めて気がついた、一番大切なのは家族だということに・樋口 強さん
樋口 強さん
(会社員・全日本社会人落語協会副会長兼事務局長)
ひぐち つよし
1952年生まれ。
兵庫県姫路市出身。新潟大学法学科卒。
1975年4月、東レ入社。現在、東レシステムセンター・企画管理部長。
1996年、肺の小細胞がんが見つかり、右肺の3分の1を手術で切除。術前と術後に抗がん剤治療を受ける。
2001年、手術から5年たった記念に「いのちに感謝の落語独演会」を開催。
以後、毎年、がん患者とその家族を招いての独演会を行っている。全日本社会人落語協会副会長兼事務局長
笑いは最高の抗がん剤
「抗がん剤治療に共通の副作用に、髪の毛が抜ける、というのがあります。私も抜けました。あれ、イヤなもんですよ。けど病院はそんなこと知らん顔です。それはまた生えてきますからね。あっ、言っときますけどね、また生えてくるのは治療の前に毛があった人だけですよ。もともとなかった人は生えてきませんよ」
会場がどっとわく。なかには笑いながらそっと目頭を拭う人もいる。高座で『続・病院日記』を語る樋口強さんの口も、そんな光景を見てますます軽妙になっていく。
『続・病院日記』は小咄をちりばめながら自らの闘病体験を綴った樋口さん自作の創作落語である。
樋口さんが初めて独演会を開いたのは2001年の9月。以来、毎年1回が恒例となった。今年も9月19日、東京の深川江戸資料館で第4回目の独演会を開く予定だ。
「笑いは最高の抗がん剤。だから皆さん、ここで思い切り笑って希望と勇気をお持ち帰りくださいといっているんです。でもこの独演会は、私自身が楽しむためのものでもあります。1年かけて練り上げ、準備をするのが、私にとっては大きな楽しみなのです」
そう語る樋口さんの口調は、聞いているこちらにも生きるパワーが伝わってきそうなほど、エネルギッシュで熱い。8年前、重いがんにかかり、“ぎりぎりのいのちを歩いた人”とはとても思えない。
1996年2月、樋口さんは毎年受けていた人間ドックで、右肺にこぶし大の影があると指摘され、精密検査を受けるように勧められた。大学病院に1週間ほど入院して精密検査を受けた結果、医師から伝えられた病名は、肺の小細胞がん。医師の態度などから検査を受けた時点で「多分、がんだろう」と推察していた樋口さんは、たいして慌てることもなかったという。
「手術をすれば治るものと思っていたんです。だから先生にもまず手術できるかどうか聞きました。できる、というので、それならお願いしますと。この頃は仕事がおもしろく、入れ込んだ時期だったので、病気どころじゃない、とにかく早く仕事に戻りたいという気持ちでいっぱいでした」
二つ目のいのちを伸びやかに生きる
しかし小細胞がんのことについて調べてみたとたん、その気持ちに冷水を浴びせられた。小細胞がんは増殖が速く転移もしやすいなど肺がんのなかでもとくに予後の悪いタイプで、樋口さんの場合は3年生存率が10パーセントにも満たないことが分かったのだ。
「生存率の数字を知ったときはさすがに落ち込みました。しかし誰にでも人生に一、二度は、仕事に脂がのりきって、これが自分の天職だと思える時期があるでしょう。そのころの私がちょうどそういう時期でした。だから仕事に戻れるなら多少のつらさは乗り越えていこうと思いました」
小細胞がんは悪性度が高いものの、 抗がん剤や放射線治療が比較的効きやすいタイプとされている。そこで樋口さんは、まず抗がん剤でがん細胞を縮小しておいてから手術をし、その後また抗がん剤治療を行うという治療法を選択した。
抗がん剤治療による副作用のつらさは想像を超えていた。しかも1回目より2回目のほうがさらに苦しかった。制吐剤もほとんど効かない激しい嘔吐が30分おきに襲ってくる。抗がん剤の血中濃度を下げるために電解水を点滴で入れる。それだけでは間に合わないので、自分でできることは吐いた直後に大量の水を飲むこと。そんなことの繰り返しで精神安定剤を打っても眠れない夜が続き、苦しくて新聞やテレビで気を紛らすことさえできない。じっとしていられず、ただ病室のなかをうろうろするばかり。精神的に非常に不安定な状態になった樋口さんは、「ひょっとしたらもうこの病室から2度と出られないのでは」とさえ思うようになっていた。
「きっと大丈夫だから。病気を治してもう一度やり直しましょう。大丈夫よ、きっと」
くじけそうになっていた樋口さんの気持ちを救ったのは、妻の加代子さんのこの一言だった。
「そのとき初めて気がついたのです、妻がすぐそばにいてくれたことに。そして、なんとしても生きたい、もう一度違ういのちを妻と一緒に生きようという強い思いがこみ上げてきたのです。生きるうえで一番大事なのは、やはり家族です。でも僕は仕事がおもしろかったので、家族をずいぶん犠牲にしてきた。休みの日も家にいることはまずなかったし、たまにいても1日中ほとんど寝ている。生きるうえで何が大事か、その軸足を間違っていた。だからがんになったんだと思うんですよ」
生きようという思いが二人を支えていた
こうして術前の抗がん剤治療を乗り切った樋口さんは、約9時間におよぶ手術で右肺の3分の1を切除した。そしてその1カ月後、体力も免疫力もまだ十分には回復していない段階で、術後の抗がん剤治療を受けた。実はこの間、治療方針について樋口さんは二人の医師と徹底的に話し合っている。一人は、手術を執刀した総合病院の外科医。もう一人は抗がん剤治療を担当した大学病院の内科医だ。
手術で患部は切除したが、がん細胞はすでにリンパ液や血液に乗って体中に飛んでいることが予想される。そのがん細胞が体内のどこかに生着して転移したら、小細胞がんは増殖が速いのでもう打つ手はない。けれどもリンパや血管のなかを飛んでいるうちなら抗がん剤でたたくことができる。だから危険もあるが、術後の抗がん剤治療は徹底して行ったほうがいい、というのが外科医の意見だった。
それに対して内科医は、術後の抗がん剤治療は1回だけにしておくべきだと主張した。体に与える負担が大きすぎて危険だというだけではない。このがんは再発の可能性が非常に高い。それなのにここで3回の抗がん剤治療をしたら、がん細胞に耐性ができてしまい、再発したときにはもうこの抗がん剤が効かなくなるというのだった。
結局、樋口さんは外科医の意見を選んだ。
二つ目のいのちを伸びやかに生きることに決めたからには、延命ではなく治癒の可能性があるほうを選ぶのは、樋口さんにとってごく自然の結論だった。
「術後の抗がん剤治療が術前以上につらいものになることは、医師からもきちんと説明がありました。しかし妻も『リスクを負いながらでもその道を歩きましょう』といってくれました。どこに出口があるか分からない真っ暗な迷路のようなものだったかもしれません。でも、生きようという思いが二人を支えていたのです」
医師がいったとおり術後の抗がん剤治療は、術前のそれを上回る苛烈さだった。激しい嘔吐だけでなく手足はしびれ、腎機能も急激に低下した。だが、二つ目のいのちを伸びやかに生きることに決めた樋口さんに、もう迷いはなかった。耐えて耐えて耐えぬいて、3回にわたる抗がん剤治療を乗り切った。
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