医をめぐる勉強ががんをめぐる環境を変えるかもしれない
医師と患者の架け橋として・中島陽子さん

取材・文:崎谷武彦
撮影:谷本潤一
発行:2004年1月
更新:2013年8月

  
中島陽子さん
中島陽子さん
(医をめぐる勉強会」代表)

なかじま ようこ
1955年生まれ。東京都出身。滋賀県信楽町在住。
1996年4月、乳がん発病。左乳房切除手術を受ける。
1997年4月、放送大学に入学し心理学を学ぶ。
1999年6月、乳がん患者の話を聞くボランティアを始める。
1999年9月、ホームページ「風の吹く場所」開設 (ホームページを見る
2000年6月、医をめぐる勉強会開設。


心の奥にいつもある不安

写真:「庭いじりも楽しいですよ」と中島さん
「庭いじりも楽しいですよ」と中島さん

2003年9月下旬、中島陽子さんはがんの検診を受けた。骨シンチ、胸部レントゲン、腹部CTなどを行う年に一度の定期検診だ。だが、今回は気持ちのありようがいつもと少し違っていた。しばらく前から肩のあたりが痛み、だんだんひどくなってきていたからだ。

「多分、五十肩なのでしょう。でも、ああ、きたか、という思いもあります。何人か知っていますから、四十肩とか五十肩と思っていたら再発だったという人を」

そう語る中島さんの口調に深刻さはあまり感じられない。もしかしたらがんが再発したのかもしれないという、本来ならとても深刻なはずの話題を、中島さんはニコニコと笑いながら語る。

しばらくして検診の結果が知らされた。幸い、異常はなかった。

「かなり、ほっとしています。人というのは『生きたい』のだと、改めて思いました。こういうことは、危機なく暮らしていると感じることはできません。結果を聞いて、身体の奥から喜びが湧き上がる。こういう、喜びを味わえるだけでも、恵まれた人生を与えられたなあと思います。これは誤解されやすいのですが、再発しないことがうれしい、というのではないのです。この先に何があろうと、それを見据えて今を大きく喜べる幸せ、というのでしょうか」

検査の結果について連絡してきたメールに、中島さんはそう書いていた。

明るく振る舞いながらも中島さんの心の奥には、常に不安な気持ちが澱のように沈んでいる。手術から7年たった今でも、それは変わらない。

思わず口に出た「帰るのが怖い」

1996年4月14日の夜、中島さんはふと違和感を覚え、左胸に手をやった。ゴリンとした不吉な感触が手に伝わってきた。「がんだ」と直感的に思い、心がざわつくのをおさえられなかった。

検査の結果は案じたとおり、乳がんだった。大きさは2センチくらい。リンパなどへの転移はなく、ステージは1。細胞診の結果が出るまで家族にも誰にもいわず、1週間、中島さんはじっと耐えていた。

「異世界に入ってしまったような感じでした。自分はものすごく緊張しているのに、日常は普通に流れていく。自分と世の中が隔絶したような、一種異様な感覚でした。景色の見え方も変わりました。なんだかとてもクリアになったんです。今、この瞬間は二度とないという思いが強かったからでしょう」

入院したのは大津市の病院。手術日が決まるとその直前に中島さんは外泊を願い出た。家に帰り、部屋の掃除や片づけをしてから美容院へ行き、髪をバッサリ切った。手術後に抗がん剤治療をして副作用が出たとき、髪が長いとじゃまだし見苦しいだろうと思ったからだ。そのあと自宅に戻った中島さんは、中学生の頃からつけていた日記帳や大切にとっておいた手紙類を全部、庭に持ち出して燃やしてしまった。

「最悪の場合、家に帰ってこられないかもしれない、だから身辺をきれいにしておこうと。かなり深刻に思い詰めていましたね」

4月30日に行われた手術では、左の乳房を切除した。術後の経過は周りが驚くほど順調だった。だが、中島さんの心の中では、この先どうなっていくか分からない恐怖、どうしていいか分からない不安がどんどんふくらんでいたのである。だから主治医からいつでも退院していいといわれたときは、思わず「帰るのが怖い」という言葉が口をついて出た。すると医師は笑みを浮かべながらこういった。「いつまでもいていいですよ」と。

「その一言ですごく楽になりました。不安を訴えるというのは甘えているのだと思います。先生はそのとき私の甘えを一瞬でも受け止めてくれたんですね」

医療現場には精神的ケアがない

けれども入院中に抱いた不安や恐怖は、退院後も解消されることはなかった。感情が一時に噴き出して突然、泣き出してしまうこともあった。

「このときの経験で感じた一番の疑問は、医療現場に精神的なケアがないということです。病気そのものを診てくださることに関しては感謝しています。でも患者個々の心の痛みを持っていく場所が、病院にはありません。体そのものが治っていても心が傷ついたままでは、日常に戻っていけません」

中島さんには入院中の忘れられない思い出がある。手術前まで同じ病室にいた末期患者のことだ。その人は自分の死期が近いことに対する憤りを持てあましているように見えた。しかし、家族も医師も看護師も何もいわず、ただ遠巻きにして見ているだけのようであった。そして中島さんが手術後、以前とは違う病室にいるとその人が入ってきて、中島さんをじっと見ながら「どうして前と違う部屋にしたの、待っていたのに」といったのである。中島さんと何か話をしたかったのかもしれない。しかしそのとき中島さんは、何も答えることができなかったという。

「あのような人間の目を見たことはありません。孤独と絶望とあきらめに満ちた、暗く冷え冷えとした底のない穴のような目でした。 なぜ、あんな目をして死ななければならないのか、なにかすごく間違っている、という怒りが込み上げてきました。それとそのとき、自分が何もできなかったこと、何もいえなかったことが申し訳なく、自分にも腹が立ったんです」

そういう思いを引きずっていた中島さんは、退院して1カ月ほどボーッとして過ごしたあと、がんについて猛然と勉強を始めた。一つの理由は、自分の不安を解消するためだ。この先どうなるか分からない恐怖、どうしていいか分からない不安は、お化け屋敷の怖さに似ていると中島さんはいう。次にどんなお化けが出てくるか分からないからお化け屋敷は怖い。だったら徹底的に勉強して、次に何が出てくるか分かるようになれば、怖さも少しは解消できるはず、と考えたのである。

医学書や専門書を読みあさる

勉強を始めたもう一つの理由は、医療現場から精神的ケアが抜け落ちているなら、自分がなんとかしようと思ったからである。そのためにはまず、病気のことをよく知る必要があるというわけだ。

その頃はまだインターネットはおろかパソコンも持っていなかった。おまけに近所の書店には、一般の人向けの簡単な解説書くらいしか置いていなかった。今と比べるとその頃は、一般の人が手に入れられるがん情報はまだ少なかったのだ。そのため中島さんは、自宅のある滋賀県信楽町から電車を乗り継いで2時間くらいかけて京都の紀伊国屋書店や丸善まで行き、医学書や専門書を読みあさった。医学書や専門書は値段が高いので買わずにもっぱら立ち読み。月に数回、そうやって京都まで足を運び、メモを取りながら何十分も立ち読みをしたのである。

そうして勉強をし、いろいろ調べていくうち、中島さんの手術では、乳房温存療法も可能だったかもしれないことが分かった。

写真:ホームページ作成、原稿執筆などに欠かせないパソコンも趣味の域を超えるまでに
ホームページ作成、原稿執筆などに欠かせない
パソコンも趣味の域を超えるまでに

「主治医の先生は、乳房内再発の可能性が3割あると説明しました。私は再発するのは絶対いやだったから切除することを選びました。でもあとで調べたら、ぎりぎりで温存療法ができたかもしれないことを知りました。東京の病院だったら多分、温存療法を勧めたのではないかと思います。温存してややこしくなる人もずいぶんいますし、乳房が変形することもあります。必ずしも温存療法がいいとは限らないし、結果として私の選択は間違っていなかったと思います。でも7年前のあのとき、そういう情報も全部オープンにして、どうしましょうと一緒に考えてほしかった。そうしていたらきっとあとであんなに苦しむことはなかったでしょう」

退院後しばらくしてからは乳がんの患者会にも入った。入院する前から会の存在を知っていて、電話で入会を申し込んでいたのだ。

講演会などにもよく行った。患者会の人から誘われて、東京の「生と死を考える会」のセミナーにも参加したことがある。97年には放送大学に入学し、心理学も学んだ。病院が精神的ケアをしないのなら自分でそこを埋めてみたかったし、がんになってから今まで経験してこなかったような感情が湧き起こってきたのが不思議で、そのわけを知りたかったからだ。そして放送大学で心理学を学ぶうちに認定心理士の資格が取りたくなり、滋賀大学で心理学実験を履修した。


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