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日本プロ野球を深く愛し、そして球界から強く愛された「親分」のあっぱれ野球人生 人生を懸けてボールを追い、最期の瞬間までボールを見つめ続けた──。大沢啓二さん(元プロ野球監督・野球解説者)享年78
(元プロ野球監督・野球解説者)
享年78
球界の親分として、ときに厳しく、そして誰よりも優しいまなざしで、日本プロ野球界を見つめていた大沢啓二さん。大沢さんが、プロ野球界に遺したものとは──。写真提供/産經新聞社
1カ月足らずの短い入院期間中、週末が近づくと周囲の誰からも「親分」と親しまれたその人は、ベッドから体を起こして立ち上がり、日曜日の外出に備えていた。
「親分」は律儀な人だった。それまで10年以上続けていた生放送のテレビ番組「サンデーモーニング」に出演するために準備をしていたのだ。その番組で「親分」が前の週に話題を集めたスポーツ選手に「あっぱれ!」「喝!」と裁定を下す「週刊御意見番」は、番組の目玉コーナーだった。
「親分は自分を育ててくれた日本のプロ野球界に、恩義を感じ続けていた。それで少しでもプロ野球界のためになればと、どんなに体調が悪くても、そのコーナーへの出演を続けており、晩年には、その番組への出演を中心にスケジュールが組まれていた。土曜の夜、山形で講演を行った後で、タクシーで帰京し、そのままテレビ局入りしたこともあったほどでした。入院してからも、もう1度テレビで話してえよと、くり返していました」
と、マネージャーを務めていた久保文雄さんは、「親分」の人柄について語る。
しかしその願いが叶うことはなかった。2010年9月、胆嚢がんの悪化で入院して約3週間後の10月7日、「親分」こと大沢啓二さんは、野球に思いを馳せながら静かに眠るように世を去っていった。
情に厚い「浪花節」の人だった
1週間後の10月14日、東京、増上寺で催された葬儀には、1,200人もの人たちが訪れ、「親分」の死を悼んだ。それはその人の人望の厚さをそのまま物語っているようでもあった。
「情に厚く、男気にあふれた浪花節の人だった。選手を守り、チームの士気を鼓舞するためには鉄拳制裁も辞さなかった。もっとも豪放さとはうらはらに、細やかな気配りもできる人で、監督時代にはバッティング投手など裏方さんを食事に招いたり、地方に行くと他界した同僚の奥さんを気遣い、訪ねたりもしていました。ユニフォームを脱いでからもメディアやイベントを通してプロ野球を応援し続けていた。1度つきあうと誰もがあの人柄や熱意にほだされた。『親分』という愛称があれほどしっくりとなじむ人も珍しいでしょうね」とも久保さんは語る。
享年78──。その人生は「親分」の愛称そのままに波乱に満ちたものだった。
殴った審判からスカウトされる
大沢啓二──。1932年、神奈川県出身。神奈川商工高校卒業後、立教大学で野球選手として活躍し、南海ホークス(現ソフトバンク)に入団。その後、東京オリオンズ(現ロッテ)に移籍し、同年現役を引退。同チームで監督を務めた後、日本ハムファイターズ監督を経て、1996年に退団する。
──大沢さんの野球歴を簡単に表すと、こんなふうにまとめられるだろう。もっとも、現実の大沢さんの人生は、こんな味も素っ気もない略歴ではうかがい知ることのできない不思議な出会いと逸話に満ちている。当時、プロ野球をしのぐ人気を誇っていた大学野球の一角を担う立教大学への進学もそうだった。
高校時代から「暴れん坊」でならしていたエース大沢さんは、審判の判定が不満で、試合終了後、こともあろうにトイレで出くわせた球審を殴打する。ところが数カ月後、その球審が大沢さんの自宅を訪ねてくるのだ。
「その球審が、実は立教大学の野球関係者で、『チームには君のような元気な若者が必要だ』と大沢さんをスカウトしにやってきたのです」
と語るのは、後に日本ハム発祥の地、徳島の阿波踊りに招待したことから大沢さんと懇意になり、さまざまな「伝説」の目撃者となった日本ハム総務部長の西原耕一さんである。
立教大学で3年生になると長嶋茂雄、杉浦忠という、後にプロ野球を担う存在となる新入生も野球部に入部してくる。大沢さんは、当時、南海ホークス監督だった鶴岡一人さんにスカウトされ、南海ホークスに入団。そのホークスで大沢さんは堅守の外野手として活躍するが、その後東京オリオンズに移籍、選手として活躍した後に同じチームで1、2軍監督を務めて退団。そしてその数年後、大沢さんの野球人生を決定づける出会いが待っていた。
親分の親分との出会い
「当時の球団社長、三原脩さんから、親分は2年前に発足した日本ハムファイターズへの監督就任を要請されたんです。実はそのとき、親分は別のチームからも監督就任の依頼がありました。そこで親分は、オーナーに会ってどちらの球団にするか、決定することにしたのです」(西原さん)
決断は速やかだった。当時の日本ハム球団オーナーの大社義規さんに会った直後に、大沢さんは同球団への監督就任を決める。大社オーナーは体重100キロという巨漢だったが、その体型にも増して人間としての度量が大きい人物だった。
「大社さんから『好きなようにチームを作ればいい』といわれたと親分は言っていました。大社さんのスケールの大きさに親分も惚れ込んだんです。男が男に惚れたということでしょうね」
その大社オーナーの寵愛を受け、当時パ・リーグを代表するスラッガーだった張本勲選手を打倒目標としていたジャイアンツに放出するなど、大胆なチーム改革に着手する。もっとも後にその張本さんと同じ番組に出演し、兄弟のような間柄になるのだから世の中はわからない。
そうして監督就任6年目の81年には、抑えの切り札として江夏豊投手を獲得し、前・後期2シーズン制だったパ・リーグペナントレースの後期を制し、さらにプレーオフでも前期1位のロッテを抑えて、オーナーに約束した念願のリーグ優勝を果たした。
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