多忙な社長業のかたわら、簡単に声を取り戻す「シャント法」の普及に邁進
「翼をもがれた社長」は、こうして翼を取り戻した|岩瀬俊男さん(会社経営者)
いわせ としお 1947年神奈川県生まれ。1970年日本大学理工学部交通工学科卒業後、岳南建設株式会社に入社。2001年代表取締役社長に就任(~現在)。社長就任半年後の54歳のとき喉頭がんを発症。7年後に再発し、喉頭を全摘する。シャント法により声を取り戻し社長業に復帰する
送電線工事業業界では国内屈指の会社を率いる岩瀬俊男さん。いったんは治ったかに見えた喉頭がんが7年後に再発。そのため喉頭全摘の憂き目にあい、経営者としては致命的な声を失う危機に。そんな危機を救ったのは何だったのか。翼をもがれた鳥ならぬ社長の、翼を取り戻す決意と道程を辿る。
今の自分があるのは「前進あるのみ」できたから
喉頭がんの手術で喉頭を全摘すると、声帯を失って話すことができなくなる。しかし欧米では、喉頭を失っても、簡単な手術と訓練で声を取り戻せる「シャント法」が普及している。このシャント法を日本に広めるべく、NPO法人「悠声会』の副会長として活動しているのが、サバイバーの岩瀬俊男さん(65歳)だ。
岩瀬さんは、送電線工事業では国内屈指の専業会社である、岳南建設の5代目社長。さらには、9社を傘下に置く持株会社、岳南ホールディングスの初代社長でもある。
岩瀬さんが喉頭がんを発症したのは、社長就任から半年後の2001年11月。放射線治療で1度は完治したかに見えたが、2008年に再発し、喉頭全摘手術を受けた。
社長としての重責を果たすために、何が何でも話せるようになりたい――その一心で、喉頭がんとシャント法の手術を同時に行い、以前とほぼ変わらない声を取り戻した。
経営者として采配を振るうかたわら、シャント法普及のためのボランティア活動に力を注ぐ岩瀬さん。人生で積み重ねてきたことのすべてが、現在の活力の源になっているという。
「病気になる前は、小さな会社を大きくするために、仕事に没頭してきました。発病後は、声を失った皆さんに喜んでいただきたくて、悠声会の活動に取り組んできました。今の自分があるのは、いつも『前進あるのみ』でやってきたから。その積み重ねがすべてプラスに働いて、1歩踏み出すための原動力になっている気がします」
出世街道を驀進し54歳で社長の座に
岩瀬さんが岳南建設に入社したのは1970年。工事部で現場を経験した後、30代半ばで本社の営業部長に就任した。
「送電線設備は人里離れた場所に作るのが普通なので、現場にいたころは、山中で共同生活をしていました。現場監督といえども、高所作業では、作業員と一緒に鉄塔に上らないといけない。120mの鉄塔にも、平気でスイスイ上ってましたね」
5万分の1の地図に記載される送電線設備は、いわば日本の経済成長を支える“大動脈”。「地図に残る仕事」をしていることに誇りを感じ、岩瀬さんは仕事にのめりこんだ。
「北は北海道から南は九州まで、私がかかわった送電線設備は日本全国にあります。まさに人生のメモリアルという感じで、感慨深いものがありますね」
39歳という若さで取締役に昇進し、広島支店長も経験。代表取締役社長に就任したのは2001年6月、54歳のときのことだ。
企業人として出世街道を邁進し、ついにトップに上りつめた岩瀬さん。その直後に、厳しい試練に見舞われようとは、全く予想もしていなかった。
頂点で喉頭がんになり放射線治療を行う
社長就任から5カ月後の11月。久しぶりにカラオケに繰り出したが、高い声が全く出ない。のどに違和感を覚えて、近所の耳鼻科を受診したところ、大病院で診てもらうよう担当医に勧められた。地元の横浜市民病院で精密検査を受けたところ、診断は「初期の喉頭がん」。
「文字通り、『がーん』という感じでしたね。ただ、『今すぐに放射線治療をすれば、治せます』と先生に言われたので、あまり心配はしませんでした。むしろ、心配だったのは会社のことです。自分には、500人弱の社員とその家族、協力会社に対する責任がある。『今、会社を辞めるわけにはいかない。早く仕事に復帰しなきゃ』という思いで一杯でした」
翌2002年1月~3月、横浜市民病院で、リニアック(線形加速器)による放射線治療を受けた。66グレイの放射線を照射したが、幸い火傷などの後遺症もなく、治療は順調に終わった。
がんを克服して仕事に復帰した翌年、岩瀬さんは経営者として一世一代の勝負に出る。M&Aで9社を合併し、持ち株会社の岳南ホールディングスを設立したのだ。これにより、送電線建設や電気設備、防水・塗装、土木・建築などの企業を傘下に持ち、ITソリューションやFC事業なども手がける岳南グループが誕生。その総帥として、岩瀬さんは大いに辣腕を振るうこととなる。
幸い体調も良好で、治療から5年が経過した07年には、主治医から「完治です」と告げられた。忙しい日常の中で、がんの記憶は、過去のものになりつつあった。
7年後に再発し喉頭摘出手術を決意
だが、ホッと胸をなで下ろしたのもつかの間、病魔は再び息を吹き返す。2008年5月ごろ、岩瀬さんは再び、のどに違和感を覚えるようになった。
「声帯が硬くなっている感じ」があり、6月から横浜市民病院への通院を再開。11月初旬、喉頭がんの再発と告知された。
「もう完全に治っていたと思っていただけに、ショックは大きかったですね。仕事は続けられるのか。もし続けられないようなら、後継者を選ぶ必要がある。もう少し時間が欲しい……さまざまな思いが去来して、大きな不安を感じました」
前回、放射線治療を受けていたので、もはや選択肢は喉頭摘出しか残されていなかった。だが、主治医は「がんが限局的なら、レーザー治療で取れるかもしれない」と言って、慶應大学病院の齋藤康一郎医師あてに紹介状を書いてくれた。
翌2009年2月、慶應大学病院に入院。レーザー治療を受けたが、CT検査の結果、「がんが取りきれていない可能性」があることが判明。もはや、喉頭全摘しか道は残されていなかった。この日、たまたま1人で説明を受けた岩瀬さんは、その場で主治医に手術を依頼した。
「私は独断専行タイプなので、とくに家族に相談はしなかった。事後報告で、『切ることに決めたから、頼むな』という感じでしたね。私も女房も楽天的なほうですが、女房はかなり悩んだと思いますよ。でも、私には動揺は見せず、『(喉頭を)とっちゃえば』という感じでした。女房が琴を教えている女医さんに、後で言われましたよ。『なんて能天気な夫婦だろうと思った』って」
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