没後30数年経ても今なお色あせぬ世界観 戦争を憎み、子どもたちに慈愛を注ぎながら旅立った――。いわさきちひろさん(絵本画家)享年55

取材・文:常蔭純一
発行:2012年10月
更新:2018年10月

  


いわさきちひろさん

いわさきちひろさん
(絵本画家)
享年55

没後30数年を過ぎた現在でも多くの人を惹きつけるいわさきちひろさんの作品。彼女はどう生き、何を遺したのだろうか。

静かな「ちひろブーム」が

2012年7月──。

東京練馬区の住宅街の一角にあるその美術館は、夏休みということもあり、子ども連れの親子でたいへんな賑わいを見せていた。館内にはあどけない子どもたちを描いた作品群が展示されている。誰もがその作品を1度は目にしているであろう、いわさきちひろさんの個人美術館、ちひろ美術館・東京である。

そういえば同じ時期には、ちひろさんの生きざまを描いた映画『いわさきちひろ~27歳の旅立ち~』も公開され、美術雑誌などでも、ちひろさんの特集が組まれている。どうやら、ちひろさんは静かなブームとなっているようだ。ちひろさんが肝臓がんで他界して今年で38年。なぜ、今、ちひろさんなのだろうか。

1人息子の松本猛さん

「母は子どもたちを愛した画家でした」と語る 1人息子の松本猛さん

「昨年の東日本大震災以来、日本人の生き方に変化が現われ始めているのではないでしょうか? それまで経済偏重で、物質的な豊かさを追い求め続けてきたのが、それだけでは幸福になれないと人々が考え始めた。本当の幸福とは何だろう。そんなことを考える人たちが母の絵に魅力を感じているように思います」

こう語るのは、ちひろさんの1人息子で、美術館の常任顧問でもある松本猛さんである。

よく知られているようにちひろさんは生涯を通して子どもたちの姿を描き続けた。もちろんそれには理由がある。

「母は、子どもは可愛いがられなくてはならない、幸せでなくてはならないと語り続け、その幸せを踏みにじる戦争を強く憎んでいました。そして子どもをかけがえのない命の象徴と捉えていた。だからこそ、子どもを描き続けてきたのです」

と、猛さんは語る。

そういわれて見ると愛らしく自由で闊達な絵の中の子どもたちの表情には、一抹の切なさ、はかなさも垣間見られるようだ。それは、人の命のかけがえのなさを伝えるちひろさんのメッセージであるのかもしれない。そうして死の間際まで、人の命の尊さを伝え続けながら74年8月、ちひろさんは静かに旅立っていった。

戦争に反発して絵の世界へ

ちひろさんが絵を志して、疎開先の長野県松本市から上京したのは1947年、ちひろさん27歳のときである。ちひろさんを東京へ、そして絵の世界へと向かわせたのは悲惨で苛酷な戦争体験だった。

「母はお嬢さん育ちで、少女時代は何に対しても疑問を持つことがなく、絵を志しながらも両親の反対で断念した。それが旧満州での結婚生活に失敗、その後、書道を教えるために満州を再訪して人々のみじめな暮らしを目の当たりにし、帰国後には東京大空襲も体験しています。戦後になると疎開先の松本で反戦活動家とも交流を持つようになった。そうしたさまざまな体験から、自らも反戦活動に加わりたいと考えるようになったのです」(猛さん)

上京したちひろさんは小さな新聞社でカットも描く記者として働きながらデッサンの勉強を続け、下宿のある神田界隈では子どもたちのスケッチに明け暮れる。ちひろさんの穏やかなタッチは、当時のプロレタリア美術運動のなかでは批判も受けるが、ちひろさんは、カットや挿絵の仕事から紙芝居や児童書の分野へと仕事を広げていく。反戦活動を通じて知り合った後の国会議員、松本善明さんと結婚するのもそのころのことだ。

新たな時代のうねりが、そんなちひろさんを、より大きな仕事に向かわせる。

敗戦後、数年もすると戦後民主主義の広がりの中で、子どもたちに新たな教育として、児童書が求められるようになる。児童書の出版社が雨後の筍のように誕生し、大手出版社もその分野に進出し始めた。

そうした時代の流れのなかで、型にはまらないちひろさんの作品は次第に注目を集める。当初はアンデルセン童話などの挿絵を中心に描いていたが、やがて意欲的な編集者に才能を見出され、創作絵本に仕事の重点が移っていった。

武市八十雄さん

「ちひろさんは無邪気な永遠の子どものような人でした」と話す武市八十雄さん

「自由で素直で何にでもチャレンジする人でした。白い色も色の1つよと、ホワイトスペースを大胆に使ったことは今も印象深く記憶に残っています。絵本でしかできないテーマ性のある本を作ろうと、2人で話し合って完成させたのが『あめのひのおるすばん』でした」

と、語るのは至光社という出版社を起こし、ちひろさんと何冊もの絵本の出版を手がけた武市八十雄さんである。

絵本の世界に進出してからのちひろさんの仕事ぶりはまさに順風満帆だった。56年に小学館児童文化賞、61年にはサンケイ児童出版文化賞を受賞、絵本画家の第1人者としての地位を確立、さらに68年に武市さんと制作した『あめのひのおるすばん』では、水墨画にも通底する「にじみ画法」を確立し、評価を不動のものにする。そうした斬新なちひろさんの作品群は「感じる絵本」と呼ばれ、大人たちからも人気を集める。

「母はデッサンに絶対の自信を持ち、1本の線の表現の強さを追求していた。だからこそ、にじみを生かした技法も確立できたのです」

と猛さんは言う。

また、その間にちひろさんは絵本画家の地位向上のために一役買ってもいる。

「当時の絵本画家は、作品に著作権が認められておらず、掲載時に部分的な削除が行われたり、提供した作品が返却されないこともしばしばだった。そんななかで、母は作品の裏面に『乞原画返還』のスタンプを押していました」

と、猛さんは話す。

そんなちひろさんの行動もあってか、絵本画家の地位は次第に高められていった。ちひろさんは子どもたちに惜しみない愛情を注ぐ優しさの持ち主であると同時に、社会の不条理に対しては真っ向から立ち向かうしたたかな闘士でもあった。


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