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仕事をしながら療養する
使える制度をフル活用して、治療を切り抜ける
及川直子さん(49歳)は、長年、デパートなどで販売員をしてきた。最初は正社員だった。次に契約社員、そして、派遣会社の販売員へと、働き方が変わった。派遣会社の販売員として働いていた44歳のとき、乳がんを告知された。経済的にも精神的にも厳しかった。だが、医療費の自己負担額の減額制度、国民健康保険料・市民税の減免制度、そして、国民年金の免除制度を利用して乗り越えた。
派遣社員のときに乳がんの手術を受ける
及川直子さんは、正社員のときは、健康保険、厚生年金、雇用保険に加入。派遣社員では、国民健康保険と国民年金に加入、雇用保険加入なしだった。
2003年2月、派遣会社の販売員のとき、A病院で、良性の乳管内乳頭腫と診断。手術を受けた。退院後は、最初は3カ月に1度、のちに年1度ペースで、外来通院を続けた。
2006年2~3月頃、体調に異変が起きた。体重が数カ月で10㎏も激減した。通院中のA病院では、原因がわからなかった。近くの内科診療所をはじめ、7カ所の医院を受診。いろいろな検査を繰り返した。就労先の販売現場で立っていられなくなった。同年4月から仕事を休んだ。同年9月、仕事に復帰したが、2007年1月頃、再び、異変が起きた。体が冷凍庫みたいに冷たくなった。空咳も出始めた。漢方薬を飲んだが、症状は改善しなかった。働けなくなった。
A病院で、X線、MRIなどの検査を受けた。同年4月頃、A病院内科の医師から「肺と重なる乳腺のところに影があります。検査が必要です」と言われた。
2007年8月に入院。乳房温存手術とセンチネルリンパ節生検を受けた。浸潤性乳管がんの初期と診断された。44歳のときだ。入院期間は10日間。退院後は外来で、術後放射線療法を受けた。乳がん患者会ソレイユの中村道子会長から紹介されたセカンドオピニオンと相談の上、同年12月からホルモン療法を開始した。
体調の異変から乳がん告知までの約1年半は、経済的にも精神的にもつらかった。年間の収入は140万円ほど。休業中は、収入なし。貯金を切り崩し、電気代を節約し、買物は業務用スーパーで安く仕入れて、やりくりした。
たまたま、民間生命保険の女性疾患特約に加入中で、がん告知後、保険金が支給された。一時しのぎだが、助かったという。
入院費などは、A病院のソーシャルワーカーに相談した。収入が少ない場合、医療費の自己負担額の減額制度や、国民健康保険料と市民税の減免制度、国民年金の免除制度が利用できた。
「経済的に苦しいときだったので、とても助かりました。毎年の所得申告の結果、国民年金の免除の対象となる場合には申請を続けています」と話す及川さん。
求職者支援制度でスキルアップを目指す
及川さんは、長期と短期の仕事を組み合わせて働いてきた。長期の仕事は月22日ほど。短期の仕事は1週間程度。
乳がんは、5~10年間の通院が必要だ。そこで、B派遣会社に通院日を伝えて、シフトに組み込んでもらった。しかし、わがままと受け取られた。将来に強い不安を感じた。新しい職場を求めて、ハローワークに相談に行った。何社か紹介してもらった。会社の面接で「お体を大切に」と言われた。現実の厳しさに直面したとき、求職者支援制度を知った。雇用保険を受給できない求職者が、職業訓練によるスキルアップを通じて早期就職を目指す制度である。及川さんは、チャレンジした。調剤事務コースを選択。月10万円の職業訓練受講手当を受けながら、3カ月間、医療事務の専門学校に通学。10時から16時まで受講。資格取得と就職を目指した。受講の合間に外来通院をした。無事修了した。男女共同参画ンセンターで受講料免除のパソコン講座も一通り受けた。しかし、就職先を探すのが大変だった。以前、知人からの紹介で少しお世話になったC人材派遣会社に、病気のことを正直に話して、頼み込んだ。
販売現場は8~9時間拘束で、1.5時間休憩。短期の仕事は1週間通しというケースが多い。及川さんは、ホルモン療法の副作用で、疲れやすかった。足がはれて痛くなり、だるくなる。体調を崩して、周囲に迷惑をかける可能性があった。そこで、1週間の真ん中に1~2日休みをもらえるように、シフトを組んでもらった。C派遣会社の紹介で、再び販売員として働き始めた。「C派遣会社は、私の要求をわがままとはとらえず、受け入れてくれました。就労先の現場で、安心して働いています」(及川さん)
心のよりどころとなった患者会
及川さんは、独身で1人暮らし。心の支えがほしかった。薬の副作用と仕事と生活のことがつらく、病気を正直に話せる患者会を探した。乳がんのシンポジウムで、NPO法人ブーゲンビリアを知った。内田絵子理事長の著書を読んで感銘し、明るくてパワフルな人柄、生きる生命力の強さに魅かれた。「元気で明るく、手づくりで、温もりのある会、フェイス・トゥ・フェイスのつながりを大切に」という会のモットーも気に入った。入会後、「おしゃべり会」にしばしば参加。内田理事長には電話や手紙で、さまざまなアドバイスを得た。
2012年12月、5年間服用し続けた薬の治療が終わる。薬の副作用は、しばらく続く。
及川さんは、小さいころから絵を描くのが好きだった。30代でカラーコーディネーターの資格取得。販売員の仕事にも絵心を活かしてきた。乳がん告知を受けたころ、落ち込んで、つらい時期があった。ポジティブになれる方法を探し求めた。そして、図書館で脳科学やスピリチュアル関係の本をたくさん借りて読んだ。読書による自分探しの中で、絵を描くと癒やされることに気付いた。それ以後、つらいときは、家、図書館、地域市民プラザ等で、絵を描いて、描いて、落ち込まないようにした。絵の教室でイラストの勉強を続けた。
「やっとイラストレーターになれました、今、生まれてからの自分史を絵にしています。絵を描くと、生きる力が生まれてきます」と及川さん。