中咽頭がん、会社清算……。それでも、「今」を生きる

現実を受け入れ、積極姿勢に。58歳からの新たな出発

取材・文●吉田燿子
発行:2013年9月
更新:2013年12月

  

大病は、その後の人生設計の方向転換を余儀なくさせる。34歳のときクモ膜下出血、55歳で中咽頭がんを経験した都倉亮さん。壮絶な放射線治療、再発・転移リスクの恐怖を見事に闘い抜き、新たな1歩を踏み出している。


 都倉 亮 さん (作家・社団法人スウェーデン社会研究所理事)

都倉 亮 とくら りょう 
1953年東京都生まれ。1976年慶應義塾大学経済学部卒業後、三井物産入社、化学プラント部に配属。88年クモ膜下出血を患い、手術後、静養に入る。1989年三井物産を退職し、都倉インターナショナルを設立、社長に就任。ヨーロッパのモダンカジュアル家具のデザイン・生産・輸入・販売を手掛ける。2008年に中咽頭がんが左首リンパ節に転移した状態で見つかる。2010年会社を精算し、現在は著作や講演会活動を通じて患者のサポートや医療界への提言を行っている


都倉さんの経過

2008年 8月 左首にコブのような腫れが見つかる。精密検査の結果、Ⅳ期中咽頭がん(左頸部リンパ節転移)と診断
9月 アクプラによる化学放射線併用療法を開始
11月中 原発がん・転移がんともに消失
11月末 エコー検査の結果、左頸部リンパ節に残存 がんが見つかる
12月 左頸部リンパ節郭清術。以後、経過観察
2011年 7月 PET-CT検査の結果、左鎖骨上リンパ節に転移
9月 左鎖骨上リンパ節郭清術、術後補助療法(化学放射線併用療法)
11月 PET-CT検査の結果、転移がん消失
現 在 経過観察の2年目

書き上げることで「小さな自信が芽生えた」という、著書『諦めない生き方』(致知出版社)

2012年6月、聖路加国際病院理事長・日野原重明さんのサポートにより、1冊のがん闘病記が出版された。本の題名は『諦めない生き方』(致知出版社)。日本における北欧家具ビジネスの先駆けとして活躍した、都倉亮さん(60歳)の処女作である。

実は都倉さん、山口百恵やピンクレディーなどの楽曲で知られる、作曲家・都倉俊一さんの弟でもある。イスラエル大使やスウェーデン大使を歴任した外交官・都倉栄二さんを父に持ち、長男の賢さんは現役Jリーガー、長女の伶奈さんは2003年度準ミス日本に輝いた舞台女優というから、まさに小説のタイトルを地で行く「華麗なる一族」だ。が、その人生は、2度にわたる大病と、死の淵からの生還という波乱の連続だった。

34歳のときにクモ膜下出血で倒れ、三井物産を退社。北欧家具のデザインと輸入・販売を行う会社を起業し、業界のリーディングカンパニーに育て上げた。だが、55歳のときにステージ4の中咽頭がんを発症し、その3年後に再発。3大療法による闘病の末、元気を取り戻した。現在は著作や講演活動を通じて、患者のサポートや医療界への提言を行っている。

「現在、日本では自殺者が14年連続で3万人を超えています。自殺の2大原因は『健康』と『経済的な理由』だという調査結果がありますが、僕ははからずも、その両方を体験することになった。それだけに、自殺に至る人たちの苦しみが、とても他人事とは思えないのです」

34歳でクモ膜下出血 死地から生還

14歳までの合計11年間を、父の赴任先のドイツで過ごし、中学2の終わりに帰国。慶應義塾高校、慶應義塾大学経済学部に進学し、卒業後は三井物産に就職した。化学プラント部で1000億円規模のプロジェクトを任され、世界中を飛び回る日々。将来を嘱望されていた都倉さんだったが、34歳のときに、突然、クモ膜下出血に襲われた。1988年3月のことである。

「手術をしても99%助かる見込みはない。仮に助かったとしても、重い後遺症で一生寝たきりになる可能性が高いです」

医師は妻にこう告げたが、幸いにも手術は成功した。だが、退院後の無理がたたり、体調がみるみる悪化。1年間の休職を命じられた都倉さんは、「同期に後れをとりたくない」一心で、三井物産を退社した。

1989年11月に会社を設立。輸出入業務の代行からスタートし、やがて、日本家屋に合った北欧家具のデザインや輸入・販売を手掛けるようになった。事業は順調に拡大し、商品の卸先は全国250店舗を超えた。インターネット直販体制も強化し、虎ノ門にショールームを開設。2013年の株式上場を目指して、都倉さんは多忙な日々を送っていた。

Ⅳ期の中咽頭がんを発症

左頸部リンパ節郭清術直後の都倉さん

都倉さんを再び病魔が襲ったのは、そんな折のことである。

2008年8月、左首にコブのような腫れが見つかった。近くのクリニックで診てもらったところ、診断は「筋肉の内出血」。だが、薬を飲んでも腫れは引かず、紹介状をもらいY病院の耳鼻咽喉科を受診した。すると、担当医は口の中を覗き込み、首を触診してこう言った。

「これは筋肉の内出血などではありません。がんの疑いが濃厚です」

医師によれば、原発巣は中咽頭にあり、左首の腫れはリンパ節に転移したがんの可能性が高いという。帰宅後、インターネットで検索すると、衝撃的な事実がわかってきた。中咽頭がんは進行した状態で発見されることが多く、リンパ節や他臓器に転移していることも少なくないという。調べれば調べるほど、事の重大さに慄然とする思いだった。

精密検査の結果は「Ⅳ期の中咽頭がん」。告知を聞いた瞬間、全身の力が抜けていくのがわかった。中咽頭がん患者の95%はヘビースモーカーで、毎日飲酒する習慣があるという。

クモ膜下出血を経験してから、「健康オタク」と揶揄されるほど、体には人一倍気を遣ってきた。その自分が、なぜこんな病気にかかってしまったのか―― 都倉さんは割り切れない思いでいっぱいだった。

苛酷な放射線治療に耐え抜いて

告知の後、主治医から治療法について説明があった。手術を選択した場合、最低でも身体機能の50%を失ってしまうという。それでは仕事を続けられないと考えた都倉さんは、9月から放射線と化学療法の併用治療を受けることにした。

「今回、放射線を当てる場所には神経が集中しているので、体のどの部分よりも痛みが伴います」

事前に主治医から説明は受けていたものの、その苦痛は想像をはるかに超えていた。

放射線療法を開始後まもなく、口の中と喉に焼けつくような痛みを覚えるようになった。照射部が大やけどをしたような状態になるので、通常は1週間もすると、鼻からチューブを入れて栄養補給することになる。

だが、都倉さんは自力で食べることにこだわった。鎮痛剤を服用し、喉を麻痺させるうがい薬を使いながら、1時間半をかけて完食。こうして、2カ月にわたる併用治療が終わった頃には、原発巣や左首リンパ節に転移したがんは消えていた。

再発・転移の不安におびえる日々

不安と恐怖に精神的にも追い詰められたという都倉さん

だが、喜びは長くは続かなかった。11月末に迎えた退院後初の診察で、左首リンパ節にがんが残存している疑いがあることが発覚。12月中旬、手術で左首リンパ節を郭清した。

年末に退院したものの、都倉さんの心は不安でいっぱいだった。Ⅳ期の中咽頭がんは、「治療後2年間は再発・転移リスクが非常に高い」といわれていたためだ。

その不安を裏付けるように、退院後4カ月を経過した頃から、激しい眩暈や全身の不調に悩まされるようになった。治療後の2年間に、再発・転移の疑いで精密検査を行った部位は、ほぼ全身に及んだ。

だが、都倉さんを苦しめたのは、身体的な不調だけではなかった。毎月の経過観察で、主治医に体の不調を訴えると、その部位を専門とする診療科を紹介される。しかし、各診療科は細分化と縦割りが進み、専門以外のことについては一切関与しようとしなかった。

「今の大病院は、患者の体をパーツとしてしか捉えていない。『担当する部位にがんがなければ、自分の仕事は終わり』というスタイル。ここには、僕の病状を全体として把握している医師がひとりもいない。患者の体と心が深く関わり合っていることが、どうしてわからないのか」

激しい不安と恐怖で、都倉さんは精神的に追いつめられていった。だが、Y病院では、精神面のケアにはまったく対応してくれない。知人の心療内科医に頼み込み、薬を処方してもらいながら、うつ症状と闘うほかなかった。

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