家族編 〝患者の家族〟という苦しみ

いつも一緒が当たり前だった人が、がんに奪われていったとき 小泉美紀さん(小児看護専門看護師)

取材・構成●「がんサポート」編集部
発行:2018年8月
更新:2018年8月

  

こいずみ みき
一般大学卒業後、OL経験を経て看護学校入学。卒業後、聖路加国際病院に就職。退職後都内の小児専門病院に転職。その後大学院博士前期課程修了。小児看護専門看護師として小児専門病院で勤務。ER勤務を経てPICU勤務。現在に至る。夫とはOL時代に知り合い結婚。結婚28年目に肺がんで夫が他界

夫と2人で生きてきた。これからも変わらぬ日々が続くと思っていた。ある日突然、夫に肺がん「ステージⅣ」が宣告され、〝患者の家族〟になったとき、相談できる人が誰もいないことに愕然とした。

その日は突然やってきた

居間で愛犬のジュンとくつろぐ夫の敏夫さん

26歳で夫、敏夫さんと結婚した小泉美紀さん。一念発起して看護師を志したのは30歳になったころだった。看護師になって20余年。看護師になる以前からずっと2人で支え合ってきた最愛の夫に肺がんが襲ったのは、2013年12月のことだった。

肺がん告知の2年ほど前から、夫は呼吸が苦しくなることがあって、そのときは不整脈があるという診断で、3カ月に1度大学病院の循環器内科に通っていました。咳(せき)は続いていたのですが、それほどひどい咳でもなく、心臓が原因の咳だろうと医師も私も思っていたのです。それでも、やっぱり気になったので、念のためにCTを撮ってもらったら、「肺がんの疑い」という結果。青天の霹靂(へきれき)でした。

そもそも「念のため」のCTだったので、画像を見た医師も驚いていたのがわかりました。すぐに同じ病院内の呼吸器外科へ行くよう言われ、そこで改めて詳しい検査をしたら、すでに腸骨に転移があると判明。「ステージⅣ」と確定しました。

転移があると、手術ではなく薬物療法での治療になるということで、その日のうちに呼吸器外科から呼吸器内科へ回りました。バタバタと目の前で事態が展開していくけれど、その事実についていけず、気づいたら夕方。その日、私は準夜勤だったので、あわてて仕事に出かけたことを覚えています。

それからしばらく、夫も私も、普段と変わらない忙しい年末を送りました。夫は個人塾を経営していました。生徒たちは受験直前の大事な時期。冬期講習を中止するわけにはいかなかったので、治療はすべて年が明けてから、ということになりました。というより、夫のがんはすでに転移していたので、手術ではなく薬物療法。となると、早急に始めるのではなく、まずは細胞診でがん細胞の性質を調べ、どの薬剤が夫のがんに適しているかを見極めることが重要です。年内は、分子標的薬の適応を調べるための細胞診など、細かい検査をいくつか受けながら過ぎていきました。

看護師だから、ステージⅣの肺がんがどういうものか、ある程度わかってしまう。でも、認めたくない、という気持ちしかありませんでした。

このころ、覚え書きのつもりでブログを始めたのですが、ブログのテーマは「ステージⅣだけど死なないもん!」にしました。

同じ悩みを共有する人に会いたくて

私の父はすでに他界していて、母は高齢。妹は海外に住んでいて、気軽に相談できる家族はいませんでした。そもそも何でも気持ちを話し合える家族関係ではなかったですし。

私たち夫婦には子どもがなく、28年間、2人で暮らしてきました。人生の半分以上を共に暮らしてきた夫。実は、私のほうが彼を好きで、お願いして結婚してもらったほど、とにかく大好きだった。「いなくなったらどうしよう……」、そんな恐怖が急に押し寄せてきては、「いやいや、絶対にそんなことにはさせない」、と不安を振り払う毎日。

「私は看護師なんだ。医療関係の知り合いもいるし、なんとしても助ける!」と、何度も自分を鼓舞しました。

一方で、看護師だから、肺がんステージⅣで手術ができないということは、「治ることはない」とわかるのです。でも、肺がんの治療は目覚ましく進歩していて、新しい薬も年々増えている。他の人のブログを読んでいても、同じ病状で薬物治療をしながら8年過ぎても元気に生きている人もいるのです。だから、治療しながら、持病や慢性疾患のように、低目安定で案外長く生きられるんじゃないか、とは思ったりしていました。

そのうち、どんどん劇的な薬が開発されて完治する可能性だってあるはずだ……。そんな一縷(いちる)の望みも持っていました。

私は看護師といっても、小児専門。小児には肺がんはありません。肺がんについては詳しくありませんでした。それでまず、肺がんについて必死で勉強しました。公開講座に通ったり、医師が参加する学会に足を運んだり。そうやって肺がんの知識は増やしましたが、どうにもならなかったのは〝気持ち〟の部分でした。

この苦しい気持ちを吐き出せる家族もいない、友達に同情されるのが嫌で「夫ががんだ」とは誰にも言わずにいたので、相談できる友人もいない。いろいろ調べるうちに「がん患者の会」というものがあるのを知り、とある「患者会」の門を叩いたこともありました。

その患者会の説明書きに「家族もどうぞ」とあったので、患者を支える家族という立場の者同士、情報交換したり、気持ちの部分で支え合うことができたらいいな、と思ったのです。私自身が助けを求めていたのだと思います。

勇気を出して参加してみましたが、やはり参加しているのは患者さん自身がほとんどで、家族はほぼいませんでした。かつ、その場にいると、「あなた、患者じゃないよね。元気よね」と言われているような空気を感じ、疎外感を覚えてしまって……。言われたわけではなく、私が感じてしまった、ということですが。3、4回は足を運びましたが、結局やめてしまいました。

それからは、患者会に行くことはありませんでした。夫以外との繋がりは、もっぱらブログで知り合った患者さんたちだけ。私のブログを読んで連絡をくださった方の中には、同じように、がんの学会や市民講座に参加して勉強されている方がいて、その方と情報交換したり、ときには市民講座に出席したとき、実際にお会いして話したりすることもありました。

ただ、その方たちも家族ではなく患者さん本人。最後まで、同じ「患者の家族」として悩みや情報を共有できる人に出会うことはできませんでした。

旅行もしながら過ごした2年間

桜をバックに。これが夫と一緒に見た最後の桜に

肺がん治療は、目覚ましい進歩を遂げている。分子標的薬治療を受けられるかどうかのカギは、がん細胞増殖シグナルであるEGFR遺伝子に変異があるかどうか。EGFR遺伝子に変異がある場合、そこに結合して増殖指令を遮断するのがイレッサ、タルセバ、ジオトリフといった分子標的薬なのだ。

しかし、これらの薬が効果を表しても、何年かすると、新たな遺伝子変異が起こり、効果がなくなってしまうときが来る(耐性)。

夫の闘病は3年間でした。とはいっても、始めの2年3カ月は、薬が効いていたので、新たな薬を始めるときに入院する以外は、検診と薬の処方で病院に通うくらい。あとは、「ほんとに肺がんなの?」と思うほど、普通に仕事しながら、元気に生活していたのです。

最初の治療は、告知された直後、2014年初頭の化学療法でした。前年の年末に細胞診をして、分子標的薬の適応を見定めるためにEGFR遺伝子変異の有無を調べていたのですが、その結果を待たずに、アリムタ、カルボプラチンといった抗がん薬による化学療法が開始されました。

心臓に持病がある関係で、血管新生阻害薬のアバスチンは使えませんでしたが、それでも、最初の化学療法はかなり効いて、がんは小さくなったと言われて本当にうれしかったことを思い出します。そのころ、細胞診の結果が出て、がん細胞からEGFR遺伝子変異が発見され、分子標的薬も使えることになったのです。

化学療法に続いて、イレッサ、タルセバ、ジオトリフと3種類、順を追って分子標的薬を使っていきました。耐性ができて効かなくなったら次、また効かなくなったら次、という流れです。夫はジオトリフが一番長い期間、効いていました。だから、2016年4月までは、元気に過ごせていたのです。

この間、旅行にも行きました。私たちは仕事の休みのタイミングが合わない夫婦だったので、普段はすれ違う日々でしたが、毎年、ゴールデンウィークだけはお互い休みをとって、台湾や韓国、そして京都によく旅行しました。台湾と韓国は私が好きな場所、京都は夫が好きな場所でした。

夫は、京都の小さな庭が好きで、独身時代から1人でよく行っていたようです。2人で行くようになってからも、嬉しそうに庭の写真を撮っていました。結婚生活28年間で京都には10回ぐらい行ったでしょうか。どうしてそんなに京都が好きなのか、私には結局わかりませんでしたが、一緒にいられれば私はどこでもよかったのです(笑)。

がんになってからも、京都には2回行きました。でもこのときの京都は、どこかで「これが最後かも」と思ってしまい、悲しかったです。それまではいつも夫が写真を撮っていたのに、その2回は、なぜか夫は写真を撮らず、代わりに私が撮りまくっていました。

ジオトリフが効いていた間は、旅行にも行き、普段通り元気でした。問題はジオトリフに耐性ができて効かなくなってしまって以降です。もしかしたら、前に使った薬との期間が空いたからまた効くかもしれないということで、薬を戻したりもしましたが、ダメでした。

そこからは、坂道を転がるように悪くなっていきました。食欲を失い、どんどん痩せていきました。闘病期間もずっと、自宅のある東村山から文京区大塚の塾まで電車を乗り継いで通っていましたが、終盤は、杖がないと歩けなくなり、そうなってからは、塾のそばにウィークリーマンションを借りて、そこから通勤していました。それほど、夫は塾の仕事が好きだった。というより、それが生きる励みだったのだと思います。

アリムタ=一般名ペメトレキセド カルボプラチン=商品名パラプラチン アバスチン=一般名ベバシズマブ イレッサ=一般名ゲフィチニブ タルセバ=一般名エルロチニブ ジオトリフ=一般名アファチニブ

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