希望こそ生きる力をくれると信じている 大腸がんステージⅢb。抗がん薬治療を拒否したドキュメンタリー映画監督が次作で伝えたいこと

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2018年10月
更新:2019年8月

  

野澤和之さん ドキュメンタリー映画監督

のざわ かずゆき 1954年新潟県六日町生まれ。立教大学文学部修士課程卒。文学修士文化人類学専攻。記録・文化映画のフリーランス助監督を経てテレビドキュメンタリーの世界へ。文化人類学を学んだ体験から文化社会の周縁にいる人々を描いた作品が多い。2004年在日1世の半生を描いたドキュメンタリー映画『ハルコ』が全国の劇場で公開され話題になった。2012年元ハンセン病夫婦の愛を描いたドキュメンタリー映画『61ha絆』、2014年ハンセン病世界最大級の施設があったフィリピン・クリオン島を描いた『CULION DIGNITY』、2016年福井県おおい町で日本の精霊信仰『ニソの杜』を完成

ハンセン病などを描いた作品があるドキュメンタリー映画監督の野澤和之さんが次の作品に選んだのが「がん哲学外来メディカル・カフェ」だった。しかし、健常者である野澤さんはがん患者とどう向き合っていけばいいのか悩んでいた。

そんな折、腸閉塞を起こして担ぎ込まれた病院で大腸がんが発見された。腫瘍の切除手術をしたものの肝臓に転移。抗がん薬治療を勧められたが治療を拒否し、この映画の完成に情熱を傾ける野澤さんに話を聞いた——。

「がん哲学外来メディカル・カフェ」との出会い

ドキュメンタリー映画監督の野澤和之さんが「がん哲学外来メディカル・カフェ」(以下「メディカル・カフェ」)のドキュメント映画を撮ろうと思い立つきっかけになったのは、知人から順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の樋野興夫さんの活動や著作を紹介されたからだった。

「メディカル・カフェ」とは、樋野さんが2008年に順天堂病院内に5日間だけ「がん哲学外来」を立ち上げたところ、予約で一杯になったことがきっかけとなって、喫茶店などでお茶を飲みながら、患者や家族から悩みを聞くいまのスタイルが出来上がった。

そこで処方されるのは薬ではなく、「八方塞がりでも天は開いている」「人生いばらの道にもかかわらず宴会」などの〝言葉の処方箋〟だ。

現在、医療者、看護師、がん患者、家族がそれぞれの悩みを話し合う「メディカル・カフェ」として全国150カ所で開催されている。

樋野さんはこの活動が評価され、今年の9月に日本対がん協会の「朝日がん大賞」に選ばれている。

「3年ぐらい前の夏に、知り合いを通して樋野さんに一度会ってみないかとの誘いがあり、樋野さんの活動や著作は知っていたので、講演会を聞きに行きました。それから『メディカル・カフェ』に出かけて行って、初めてがん患者さんと向き合うことになりました」

最初の頃、野澤さんはがん患者と会って話を聞いていても、自分ががんでないことの負い目があって、がん患者をどう撮るか、どう説得すればいいのか、自問自答しながら取材する日々が続いたという。

樋野興夫さん(左)と

大腸がんステージⅢbと診断される

悩みながら取材を重ねていたその年の暮れ、テレビの仕事でフランスに行くことになった。

帰国した野澤さんは土曜日に仲間と草野球をした後、ラーメンを食べて帰宅したのだが、腹痛がありどうにも腹が張ってしかたない。トイレに行くのだが便がどうしても出てこない。便秘をしたことがこれまでなかったわけではないが、こんなに苦しい思いをしたことはなかった。とにかく苦しくて、苦しくて仕方ないのだ。

月曜日を待ちかねて、野澤さんは取るものも取り敢えず近所の町医者に駆け込んだ。そこでレントゲン撮影すると医師から「これは大変だ、腸閉塞を起こしていますよ」と言われた。「放っておけば死にますよ」と畳みかけられ、大病院に救急車で搬送され即入院となった。便が出ずに苦しんでいた野澤さんは、腸閉塞を起こしていたのだ。

直ぐに腸閉塞の治療を行い、さらに精密検査をしてみるとS状結腸に腫瘍が見つかり、大腸がんステージⅢbと診断された。幸にというべきか、腸閉塞を起こしたことで野澤さんの大腸がんが発見されたのだ。

腸閉塞の治療を終えると一旦退院し、大腸がんの手術を受けるために再度入院することになった。S状結腸にできた腫瘍を摘出する開腹手術を受けたが、その後手術した箇所が癒着したために再び開腹手術することとなった。

さらに悪いことは重なるもので、リンパ節と肝臓に転移が見つかった。肝臓に転移した腫瘍は1個、大きさは1㎝ぐらいだった。

医師は抗がん薬治療を勧めたが、「抗がん薬治療については賛否両論あることは知っている。抗がん薬を使用してもしなくても延命率がそんなに変わらないようなら抗がん薬を使用することで体力を消耗し、映画を撮ることが出来なくなるかもしれない。それなら抗がん薬治療は行わない」と決断した。

腸閉塞の治療と併せて都合2カ月入院し、抗がん薬治療を拒んで退院した。

「大腸がんになってがん患者の気持ちに寄り添うことができるようになった気がし、この映画を完成させたい」と語る野澤さん

野澤さんはそれまで健常者である自分が、がん患者たちとどう向き合っていけばいいのか常に悩んでいた。

しかし、「自らが大腸がんになったことでがん患者の気持ちに寄り添うことができきるようになった気がし、是非ともこの映画を完成させたいと強く思うようになった」と言う。

野澤さんは体力が回復した昨年(2017年)の夏に撮影を再スタートさせた。

がんになったことでスーッと撮影に入っていけた

いまや2人に1人ががんになる時代、がんはかってのような特殊な病ではないと言われる。また国立がん研究センターが2011年にがんと診断された約31万人分のデータから「3年生存率」を発表した。それによればがん全体の平均が71.3%、前立腺がんに至っては99%、野澤さんの罹った大腸がんでも78.1%と、がん=死のイメージからは遠くなりつつある。

一方、2014年に新たにがんと診断された患者は86万7408人で、部位別では大腸がんがトップとなっている。

がん=死ではないかもしれないが、がん患者は確実に増え続けているのも現実だ。

そんながんを取り巻く現状の中、映画を作る上でもがんにアプローチする方法は様々あるのに野澤さんは何故、その取材対象を「メディカル・カフェ」に絞ったのか。

「患者会など色々見学させてもらいましたが、『メディカル・カフェ』が、がん患者の気持ちに寄り添って『がんと共に生きていく』という当たり前のことを一番自然にやってる所だな」と思えたからだと言う。

野澤さんはテレビをやっていた30代の頃、がん特集の番組もやり、帯津良一さんの人間をまるごと捉えるホリスティック医学の取材にも行ったりしていて、がんに対する知識はそれなりにあると自負している。

「樋野さんたちのやっている『メディカル・カフェ』はこれからの時代、日本で必要となる〝がん学〟の1つだな、という認識がありましたからね」

「撮ろうとしている映画はドキュメンタリーなので対人間に対してどう撮るか、自分の姿勢が問われてくる。だから自分の中では常に忸怩(じくじ)たるものがあって頭でわかっていても、どう接していっていいか迷っていた。丁度そのときに自分ががんになることで、がん患者さんとの垣根が取り払われ、スーッと撮影に入っていけたという長所はありましたね」

正式にスポンサーもつき、クランクインのスタートを切ったのが2018年1月9日のことだった。

「本当に映画になるんですかね?」

その日「メディカル・カフェ」の撮影が正式にスタートしたことを報告がてら、映画製作のスタッフと共に樋野さんに会いに御茶ノ水のレストランに行った。

その報告を聞いた樋野さんは「本当に映画になるんですかね?」と、何度も野澤さんやカメラマン、がん哲学外来製作委員会のメンバーたちにそう聞いてきたという。樋野さんとしては自身が始めた活動は地味なもので、映画という晴れがましい舞台にそぐわないのでは、と思っていたからだ。

一方、野澤さんは自らのがん入院体験が糧となり、この作品を完成させたいと強く思うようになっていった。

「映像表現の中では、がん患者さんがどうがんと共に生きているかということ、その中でどう言葉から力をもらっているか、これがこの映画のキーだと思います。〝言葉の処方箋〟とは言葉によって人を処方する、癒すと置き換えてもいい。そのイメージを語るとすればその言葉によって、例えば、Aさんがどう回復していき元気を取り戻していったかということが映像に出ていれば、この映画として成功かなと思う」

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